[寺社] 日光東照宮 (1)−4 建立 なぜ日光なのか。
先ず、二代将軍徳川秀忠により東照宮が日光に建立された経緯から、始めます。 <日光東照宮の謎 高藤晴俊 講談社現代新書より>
……元和二年(1616)一月二十一日、駿河の田中に鷹狩りに出かけた家康は、その夜にわかに発病し、同月二十五日駿府に帰城した。 その後、小康を得た時期もあったが、四月になると病状は悪化の一途をたどり、自ら死期の迫ったことを悟った家康は、数々の遺言を残している。 二日頃には本多正純、南光坊天海、金地院崇伝を枕元に召して、死後の処置について指示している。 その内容は崇伝の日記(本地国師日記)によれば、一両日以前、本上州、南光坊、拙老、御前へ被為召、被仰置候ハバ、御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候、とある。 すなはち「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺には位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」そして、神に祀られることによって「八州の鎮守になろう」と指示したのである。 この遺言によって、のちに日光山に東照宮が建立されることになるが、…………では、徳川家康公が何故日光山を指定したのか、生前日光を訪れた事が在るのでしょうか?、……古代から聖域とされる日光山とは…
日光東照宮 陽明門
天平時代霊峰男体山登頂を志した勝道上人が大谷川対岸に四本竜寺を創建し、苦難の登頂に成功し男体山湖畔に神宮寺として中禅寺を創建します。その後、各地より修験者や僧が日光を目指し集まり、堂宇を建て、山岳信仰の霊場となります。 さらに天台宗、真言宗など密教の霊場ともなり日光山の信仰基盤が成立し、すでに中世には鎌倉幕府源頼朝の信仰を得て関八州の聖域となっておりました。
また、家康公に『天海僧正は人中の仏なり』と云わしめ、帰依した天台宗の南光坊天海の影響は没後の神格化構想の示唆で、遺言「関八州の鎮守の神」として、家康公は天海僧正創起する山王一実神道に則り薬師如来を本地佛とする東照大権現として創建の東照社に祀られました。…日光遷座の最大の理由…日光山開祖の勝道上人の四本竜寺の流れが座禅院ですが、慶長18年頃(1613)衰退した寺を天海上人が座主になり関八州の聖地を復興させていたのです。…
注)四本竜寺の変遷→満願寺→光明寺→座禅院→日光山輪王寺……明治政府の神仏分離令により東照宮は別当寺の輪王寺より独立し今日に至ります。…
ここでクローズアップされるのは、幕府統治の根幹を構想する家康公への知的教唆が、なんと武将ではなく南光坊天海、金地院崇伝、二人の僧侶だったのです。 即ち、「武家諸法度」、「禁中並公家法度」を起草した金地院崇伝は天皇と諸侯を幕府法制下に組み込み、南光坊天海は徳川将軍の霊廟寺院など、宗教文化面で共に卓越した手腕は将軍家の発展に寄与しております。 もし中期以後の将軍、幕閣が二大法度を忠実に履行すれば、理屈の上では幕末維新の動乱など起こる筈のないものでした。……
日光東照宮に家康公が祀られた経緯に続き全国各地に存在する東照宮とはなにか?…先ず家康公の遺言により静岡の久能山に葬られ久能山東照宮となり、日光遷座、更に三代家光公による寛永の大造替となりますが、この間、日本各地で多数の東照宮が勧請されており、”概算五百五十五社、現存するもの約300社、廃絶60社、残りは調査中” と日光東照宮権禰宜、文庫長の高橋晴俊氏は記述しております。 そこで各地東照宮建立理由を大別しますと……、
「久能山、日光を初めとする幕府、将軍家創建の東照宮」
「御三家やその他大名が勧請したもの」
「家康公ゆかりのお成り御殿、御茶屋御殿、鷹狩り御殿などと呼ばれる場所」
「武士、町人個人が建立した社」 以上が各地東照宮の出自になっております。
戻りまして日光東照宮の格式は天皇家の祖神「伊勢神宮」と全く同格です。理由は「禁中並公家法度」の法制下、官位、神仏宗教の階位授与なども幕府の指示に従って天皇が行なっていたからです。 更に日光東照宮例大祭には毎年京都の天皇から御幣を東照大権現神前に奉る為に公家による例幣使が二百有余年、一年も欠かさず行われました。 この日光山を御守りする輪王寺門主は宮家が勤め「輪王寺の宮」と呼ばれ上野寛永寺の貫主も兼ねています。 日光東照宮を調べるだけで朝廷の実態は江戸幕府治世の補完役で在った事が分かります。 一例として、幕府に計らず後水尾天皇の僧侶に対する紫衣事件が象徴的でした。「禁中並公家法度」違反は厳しく。勅許の取消し、紫衣の取上げなどで天皇は退位しております。……
久能山東照宮 拝殿 …photo…おはぐろ蜻蛉
元和2年(1616)四月十七日家康公は75歳の生涯を駿府城でとじましたが、その後の経緯……直ちに遺骸は久能山に移され、仮殿竣工の十九日夜、将軍秀忠以下、家康に近仕した家臣をはじめ数百人の葬列は柩を仮殿に移し神道による儀式を行い一年後の日光遷座の準備に入ります。
元和2年10月26日 二代将軍秀忠、家康公神柩移転準備を命じる。
元和3年2月21日 東照大権現の神号勅賜。
元和3年3月 9日 東照社(東照宮)正一位叙。
元和3年3月15日 日光東照社(東照宮)竣工
元和3年3月15日 家康公霊柩久能山出発、日光へ。
元和3年(1617)3月15日早朝、南光坊天海自らが鋤鍬をとって埋葬された家康公霊柩を金輿(きんよ)に移して、日光遷座の一行は本多正純、松平正綱、板倉重昌、秋元泰朝、永井直勝、榊原照久、など三百余騎、雑兵千人の大行列で、きらびやかに装い、霊柩を奉じて久能山を出発します。 …… 先へつづく…
《日光東照宮》(4) 徳川家康公の世襲の誤算
(3) 家康公霊柩到着と初代東照宮の行方
(2) 家康公霊柩遷座の行程
(1) 建立 なぜ日光なのか