[将軍家][寺社]  日光東照宮(2)−4 家康公霊柩遷座の行程

徳川家康公の霊柩が久能山東照宮から日光山座禅院に安置までの行程をみますと、久能山から東海道二宮までは将軍引退後の居城駿府から江戸往還に使用した御成御殿、お茶屋御殿と小田原の城内に宿泊、二宮から北上し日光までの行程宿泊地の主要地点として天海上人の川越喜多院が核になり鷹狩り御使用の鷹狩り御殿、お茶屋御殿、寺院、お城は行田の忍城などを結び日光山に到着しております。
     
喜多院慈眼堂御厨子の天海大僧上肖像と喜多院本堂

特に霊柩安置する宿泊場所を分析しますと、家康公の御成り御殿や愛着の鷹狩り御殿など個人的接点を主体に考え、川越喜多院を核に据えたコースである事が分ります。 行程宿泊地9箇所の内、御殿は6箇所(城内御成御殿1)、寺院は2箇所、城は1箇所です。
では概算総距離316km所要日数19日間の行程を出発しますが、古文書に残された簡単な記載を除き、勝手に想起したものに過ぎず、家康公霊柩遷座の単なるお話に過ぎませんので御諒承ください。 しかし思わぬ収穫は地図を広げ、宿泊地を繋ぐ道を辿ると江戸初期の古道の概要が見える楽しみもありました。……元和3年(1617)3月15日久能山東照宮出発、《日光市史(中巻)台徳院殿御実記より》抜粋。

久能山から日光への経由地を作成しました、参考にして下さい。

3月15日 《今日のお泊りは、富士の善徳寺なり、砌(みぎり)に散る桜あれば咲くもあり、是れすなわち常住の理なるぞや。》久能山より36,1km富士市今泉には岳南第一の寺院善徳寺がありましたが、永禄12年(1569)武田信玄駿河侵攻で総て戦火焼失しており、この記載善徳寺とは寺院ではなく、一部古文書に残る地名、善徳寺村を指しており、現在も今泉4丁目一帯を御殿と呼び、家康公のお茶屋御殿の存在を示唆しております。 よって第一日目の宿泊は富士市今泉のお茶屋御殿となります。…御殿跡の遺構はありません。
3月16日 《霊柩吉原より浮島が原をへて三島に泊らせ給ふ》
3月17日 《けふも霊柩は三島に泊らせ給ふ》…富士今泉より21,1km…三島で家康公に深い縁の在るのは世古本陣です。秀吉公の時代から没後も江戸城徳川家康は京都伏見城を頻繁に往来し、三島では世古本陣を利用しております。
本陣の家康公接待役に元北条氏家臣安房勝浦城主正木頼忠の美貌の娘お万(おきく)が選ばれて居り、家康公五十九歳に見初められた側室養珠院お万の方は子、頼宣、頼房を生し、それぞれ紀伊藩主、水戸藩主の御三家始祖の実母です。 その他に、御殿跡とは三代将軍家光が造らせた場所と云われていますが、既に家康公の御殿がそこに在ったと仮定すれば、新たに大改築した家光新御殿を指しているとも考えられます。……簡単と考えていた三島の家康公霊柩宿泊は世古本陣か、御殿か、残念、断定できませんでした。
3月18日 《霊柩、箱根山をこえて、小田原につかせたまふ》
3月19日 《霊柩けふも小田原に泊らせ給ふ》三島より40.0km小田原城本丸には駿府と江戸往還にも使用した御成り御殿が存在します。よって霊柩宿泊場所は城内御殿と考えます。小田原市中には御殿は見つかりません。
3月20日 《小余綾(こゆるぎ)の磯を過て、霊柩を中原の御殿にとどめらる》小田原より21.3km平塚市御殿2−8、中原小学校内に御殿跡碑があります。この中原御殿は家康公の鷹狩り御殿であり、駿府江戸往還にも利用したご縁の深い場所でした。その後江戸の明暦大火の時、撤去し江戸城再建用に運ばれています。御殿跡に東照宮を勧請しましたが、その石造小祠の東照宮は現在、中原3−20日枝神社境内に移転しております。
3月21日 武州府中の御殿につかせまします》。
3月22日 《けふも府中に泊らせ給ひ、さまざまの御法会行はる》平塚中原より46.3km…府中、霊柩宿泊は鷹狩り御殿。 府中市本町一丁目に家康の鷹狩り御殿の跡があり、JR武蔵野線府中本町駅前の再開発地から御殿遺構が発掘され三つ葉葵の徳川家紋入りの瓦も出土しております。 府中本町駅大国魂神社東京競馬場、市役所の最寄駅で府中市の中心です。 天正18年(1590)家康公江戸入府後、直ちに府中御殿は造られ、しばしば家康公が滞在する本陣の様な江戸城防衛上の要衝でした。上州へは鎌倉街道、西へは甲州街道が交差し、上州新田氏の鎌倉攻めで分倍河原合戦や新田氏滅亡の武蔵野合戦の激戦地が府中界隈でした。小田原北条氏残党からの防備拠点としていたのか。…以後家康、秀忠、家光と三代に渡り、鷹狩り、川魚獲りなど頻繁に利用されますが、正保4年(1646年)府中大火で焼滅しました。大国魂神社境内の東照宮は二代秀忠の命により建立されたものです。
3月23日 霊柩仙波(川越)につかせ給ひ、大堂に入らせらる。
3月24日 (仙波に滞在)
3月25日 仙波にて川越の城主酒井備後守忠利もよふしにて、今宵衆僧を請じ論義あり。大僧正天海証義つかふまつる。…
3月26日 仙波には猶御滞在にて、終日御法会どもいとことごとし、今宵は大僧正天海みづから沙汰として、衆僧を請じ法華読誦す。府中より30.6km…仙波。川越の喜多院に霊柩安置。 徳川家康公が帰依し絶大な信頼を寄せ、神格化実現、日光遷座の実行者、南光坊天海大僧上の喜多院遷座道中の法要が最大の目玉である事が明白でした。なお天海上人と家康公の誼以来徳川将軍家天台宗川越喜多院は幕府崩壊後も続き、戊辰戦争で焼失した将軍家菩提寺上野寛永寺の再建に助力し、現在の根本中堂(本堂)は川越喜多院の講堂を解体し移築したものです。…
海上人は境内に東照宮を建立しましたが、寛永15年(1638)の川越大火で焼失、三代将軍家光は川越城主に再建を命じ寛永十七年竣工します。拝殿はその後明暦二年に江戸城二の丸の東照宮拝殿を移築、現存しております。この大火で喜多院も焼失しますが、家光公は江戸城紅葉御殿を移築し喜多院再建に助力します。現在も境内書院客殿などに江戸城大奥の建物が存在し、三代将軍家光出生の間、春日の局化粧の間などは有名です。
3月27日 霊柩仙波を出まし。忍につかせ給ふ。今宵曼荼羅供行はる。川越仙波より27.4…忍。行田市内に忍城跡があります。家康公の御殿は見当りませんので城内宿泊と考えられます。当時慶長5年から寛永3年(1600〜1626)までの忍は幕府天領となっており城番が管理しております。 家康公とは格段の誼は見えない土地ですが、小田原北条氏退治の一環、石田三成忍城水攻めの戦は有名です。秀吉旗下の家康も北条攻めの大戦功で江戸移封を賜りました。昔の行田は足袋の製造で有名な街ですが、歴史遺産として「埼玉古墳群」の所在地であり「さき玉」の地名が埼玉に転化したとされます。
なお、諏訪神社境内の東照宮は明治の御一新で藩主移住にさいし城内東照宮を移転したものです。……今回はここまで……、日光まで残すは93.2kmですが、次回は残行程と二代秀忠により造営された初代の日光東照宮の本殿、拝殿、唐門です。 因みに、煌びやかな現日光東照宮は三代家光により建替え造営されたものです。 …… 先へつづく…  。……前へ戻る

日光東照宮(4) 徳川家康公の世襲の誤算
(3) 家康公霊柩到着と初代東照宮の行方
(2) 家康公霊柩遷座の行程
(1) 建立 なぜ日光なのか