[歴史][幕末]  水戸天狗党 (2)−6  尊王水戸藩の真実

水戸天狗党事件の本因である水戸藩尊皇攘夷を一寸覗いてみましょう。 二代藩主徳川光圀に始る尊王思想への傾注歴史観史記編纂が藩の仕事として代々受継がれますが、江戸末期の9代藩主徳川斉昭の就任で尊王と過激な攘夷思想が水戸藩を席巻します。 即ち藩主斉昭と側用人藤田東湖が激烈な攘夷主義者として尊攘派を抜擢、藩重役を一新するのです。
この時点から水戸藩内は完全に分断され藩内権力闘争が従来からの藩重役(門閥、名門、弘道館書生派)との間で激化します。 藩主徳川斉昭の死去後水戸藩の権力は佐幕派が掌握、更に明治維新後は再び尊王派へと流転の度に藩内報復殺戮を繰り返し、血を血で洗う闘争の終末は明治8年まで続き明治新時代に国家に貢献出来る水戸藩出身の人材は根絶しておりました。…
しかし、この水戸藩の惨状を別にして、維新後、薩長明治新政府は神国日本建国を目指します。 その具体的な指針は…水戸光圀徳川斉昭藤田東湖が神国日本を標榜した功労者として顕彰、大日本帝国は文部省教育の課程で尊王水戸藩、光圀、斉昭、東湖を神国教育の根幹に据えてきたのです。……昭和十八年(1943)太平洋戦争の敗戦色濃厚になりますと、時の総理大臣東條英機陸軍大将は学徒動員令を発し出陣学徒の壮行式を明治神宮競技場で開催、その時の東條大将の訓示に藤田東湖の「正気歌」から一部引用をしております。 …かつて藤田東湖先生が正気の歌を賦して、その劈頭(へきとう)に「天地正大の気、粋然として神州に錘(あつ)まる」と申されたのである。只今諸君の前に立ち親しく相見えて私は神州の正気粛然(しゅくぜん)として今ここに集結せられて居るのを感ずるものである。…と近代戦を戦う学徒兵に神懸りな言辞を弄し、結末は多数の犠牲者は屍を晒し無条件降伏とは……あまつさえ藤田東湖神州日本の架空思想も昭和21年(1946)元旦の昭和天皇詔書人間宣言)で自らを神性は架空なる概念に基くと言い切っております。……
     
下関戦争で仏蘭米の連合艦隊に全砲台が破戒された。外国陸戦隊に占領された長州藩砲台
photo…フェリーチェ ベアト


ま、敗戦後もその残滓は戦前教育を受けた人達に残っている様ですが。……では藤田小四郎の水戸天狗党決起の目的はなにか?、横浜鎖港と攘夷の即時断行を幕府に要求する実力行使部隊として意義付けております。
また過激攘夷思想とはなんだったのか?、…天狗党の目的は横浜居留外国人を急襲殺戮して外国軍艦に報復交戦させ、幕府を攘夷に引込む算段でした。…が、藤田小四郎決起の翌年、彼と謀議していた桂小五郎久坂玄瑞らの長州藩は攘夷の実践として下関通過外国船の砲撃を断行、長州藩は遂に外国艦隊と下関戦争を起こし総ての砲台が破壊占拠され陸戦でも敗退します。……
幕末の複雑な尊王派の実態とは…、関が原の敗者薩摩、長州藩は既に衰弱した徳川幕府長期政権を眼前にして尊攘思想を掲げ徳川からの奪権闘争でした。一方徳川家家族水戸藩尊王事情は異なり、国主権者として神性天皇を頂き神国日本(藤田東湖の思想)を実現し、その下に勤皇水戸藩主導の徳川幕府の存在を位置付けています。 
即ち水戸藩徳川斉昭徳川将軍家世嗣争いに挑戦したのです。将軍後嗣就任を狙い七男七郎磨を御三郷の一ツ橋家世嗣として養子(一ツ橋慶喜)に出し、準備し工作をしておりますが、尽く大老井伊直弼に阻まれ、遂には水戸藩徳川斉昭尾張藩徳川慶勝福井藩松平春嶽、一ツ橋公徳川慶喜など将軍家有力家族を動員して江戸城に不時登城(強行登城)し井伊直弼に諸事の直談判に及び圧力をかけます。…結果は全員蟄居謹慎の報復を受けるのですが、この事件が契機として安政の大獄事件に発展したのです。
斉昭の死後、彼の願望は成就し徳川慶喜は15代将軍とは為りましたが、過っての尊皇派の同志であった薩長勢には将軍徳川慶喜は討伐すべき幕府賊魁になったのです。 水戸藩の悲劇の根源は光圀に始った尊王派は門閥派と常に藩内が二分対立した事でしょうか?、…水戸藩尊王主義の弱点は「二心を持たず臣事」する武士道倫理に外れ、徳川将軍の上に更に神性天皇が存在する思想です。…戦国乱世を征し天下統一した徳川家康公に異を唱えたことになります。…なぜか!、将軍統治の根幹法度(憲法)として「禁中並公家法度」と「武士諸法度」を幕府は制定し天皇公家の行動規範、罰則まで規程したのが「禁中並公家法度」です。明らかに天皇は徳川将軍(幕府)法制下の存在と云えます。現実に後水尾天皇の『紫衣事件』では「禁中並公家法度」違反で二代将軍徳川秀忠天皇の勅許の取消し、授与した紫衣の取上げまで行いました。…… 
徳川家神祖徳川家康公の家族水戸藩二代藩主光圀が尊王思想を奉持した矛盾は明治新時代まで水戸藩士、水戸藩領民には災禍をもたらしたとも考えられます。…
なお天皇家の立場としては、力関係で当然の事の成行きでしたが、「禁中並公家法度」には朝廷から関白藤原昭実が議事に参加しておりますが天皇の同意署名など存在しませんから一方的な法度とも云えるのでしょう。…… 先につづく…  ……前へ戻る… 

《水戸天狗党
(6) 栃木宿 凶行の経緯
(5) 栃木市の痕跡 太平山
(4) 水戸藩2足の草鞋で悲惨へ
(3) 自滅 飛んで火にいる夏の虫
(2) 尊王水戸藩の真実
(1) 天網恢恢 田中愿蔵始末記