[歴史][地域] 野田市関宿 (1)−2 公武合体と久世広周

野田市の地形とは利根川を流頭とする江戸川と利根川に挟まれ関宿を頂点とした鋭角のデルタ地帯を形成しております。…現在の地形上の位置付けですが。…江戸時代初期…徳川家康公の江戸入府時は利根川江戸湾流入して関宿と茨城県の境町は地続きでした。

       関宿城博物館
現在の銚子を河口とする利根川の原形は境町の南附近を流れる常陸川と云えます。 即ち江戸に流入していた利根川を栗橋附近から水路を開削して常陸川へ放流し形成された川が現在の利根川と云われるようになりました。 …序でに現在の流路完成の直前の情況とは…利根川渡良瀬川を利用し南下し江戸湾に注ぎ、その系路は栗橋附近で権現堂川(廃川)へ更に庄内古川(廃川)が現在の野田橋附近で現、江戸川流路を経て江戸湾へ、これが旧渡良瀬川の流路だったのです。
寛永18年(1641)頃、幕府は栗橋から常陸川へ(赤堀川)開削を始めて承応3年(1654)まで13年間を費やし現在の利根川の原形を完成されました。 これを利根川東遷事業と称しますが、幕府は利根川から川筋地域や江戸市街の水害軽減の方策として利根川を東へ東へと人工水路開削を繰り返しの結果が赤堀川完成で事業が成功したものです。 利根川東遷事業は近代の学者の命名雄大な計画が幕府に在った訳では無いようです。 関宿を流頭とする江戸川も野田までは人工開削河川ですが幕府文書には利根川とか新利根川と書かれ、江戸川の名称は何時定着したのかも分りません。……江戸川畔流山(千葉流山市)に滞在した俳人小林一茶も文化元年(1804)に『刀禰川は 寝ても見ゆるぞ 夏木立』の句を残しております。
戻りまして関宿城室町時代に築城されたもので家康公が江戸入府後、江戸城北方防備の主要要害として重視し、自らの生母”於大の方”の異父弟”松平康元”を城主に置き、幕府の親藩として松平、小笠原、北条、牧野、板倉、と城主は交代しており、宝永二年(1705)からは久世氏が代々の城主を務めており維新後の明治二年(1869)廃藩となり、同六年に政府の手で破却されました。
幕府の神祖、徳川家康公により治世の根幹とされた「武士諸法度」「禁中並公家法度」が幕末に至り、平和ボケの各代将軍、幕閣による治世は尊王各藩から鼎の軽重(かなえのけいちょう)を問はれ混乱期に入りました。
幕末の騒動とは列強諸国の日本来航により幕府の弱体化が更に顕著に現れるのを見極めた公家や諸藩により惹起されます。
尊王諸侯と云えども将軍家に犬の如く服従し厳しい制度に耐え永らえたと云えども源頼朝以来の足利尊氏織田信長豊臣秀吉徳川家康の如く覇権を争う武家の原点へ回帰する実力などは無く当時流行の勤皇懐古主義に活路を求めます。 対する将軍家も世嗣さえも侭ならず、さらに窮地の筆頭老中堀田正睦に至っては朝廷に開国の勅許懇願に及び、幕府禁裏方式逸脱の重大行為を犯し、徳川将軍による万機採決の大権を自ら放棄して朝廷公家の政治介入への道を開き幕府自壊の引き金を引いたのです。
だが、遅きに失したが、遂に幕府統治の憲法、家康公の二大法度の執行者とも云える幕府大老井伊掃部頭直弼は厳正な適用、即ち”安政の大獄”が行なわれ、幕府転覆、要人暗殺の謀議者の処断、更には徳川御三家の一つと云えども勤皇主義者、水戸藩徳川斉昭に永蟄居申し付けなどは徳川幕府存亡の極点に賭けた起死回生の武断手法は簡潔で違和感は感じませんが。
……”安政の大獄”が原因で「桜田門外の変」により井伊直弼は落命します。
ここに至り幕府は最後の延命策公武合体を画策、関宿藩主久世大和守広周と磐城平藩主安藤対馬守信正の老中職は孝明天皇の妹”和宮”の第11代将軍徳川家茂への降嫁を実現させ、将軍の尊王を世に示し、天皇家との関係改善で幕府の権威を復活安定させようというのです。
しかし尊攘派の反抗は更にエスカレートし、文久2年(1862)1月15日。老中安藤信正江戸城坂下門外で又もやテロリスト水戸浪士に襲われ負傷し、テロリスト全員は斬殺されましたが、これを機に安藤信正は失脚事項が噴出し老中を免職蟄居を命じられ盟友関宿藩久世広周も辞任に追い込まれました。
その後は孝明天皇の急死(毒殺疑惑)、岩倉、大久保利通等の手中に在った幼少明治天皇の朝敵征伐の勅諭(偽物)で徳川慶喜大阪城敵前逃亡と寛永寺蟄居謹慎で徳川幕府は完全瓦解し明治新時代へと転換しました。
千葉県立関宿城博物館と関宿の旧跡は次回へ……先へつづく

野田市関宿》
(2) 関宿城界隈探訪
(1) 公武合体と久世広周