[寺社] 日光東照宮(3)−4 家康公霊柩到着と初代東照宮の行方

過ってジャパン アズ ナンバーワンと云ったアメリカのエコノミストが居りましたが、将に当時、ライジングサンがハイヌーンへ、…一転、昨今はサンセットの様相となり、技術、経済の凋落は日本国の転換点となりました。 見透かした様に?、近隣国からの領土侵害が顕著になりましたが、それに触発されたのか戦前軍国主義のゾンビが復活、「国士」を気取っても眼はショボショボ、パチパチではちょっと憐れ、落語フアンや江戸っ子の軽口にすれば…、

…何でそんなに焦るのか?、焦る筈だよ先が無い…と、デモクラシー社会のピエロかロシナンテでしょう。…安定社会創り、日本国の維持発展には!、世界的な技術、科学的テクニカル立国が道標です。…更に財政健全化の第一歩に、膨大な国費をザルに水を注ぎ垂れ流す如き世襲農業保護政策(農水省行政の根幹)を止めない限り、サンセットから、夜明けの来ないミッドナイトが必然なのかも知れません。……では、気を取り直して前回の続き、…
日光東照宮奥の院宝塔

3月28日 霊柩忍を出まし。……館林にお中やどり有て、佐野の春日岡といふ寺に入奉る。惣宗寺といふ寺なりとぞ。上野介正純あらかじめ御殿をいとなみ、ここに蹕(ひつ)を駐たまふ。…忍(行田)より23.5km…館林での「お中やどり」とありますが、館林城と思われます。 当時の城主は榊原忠治で、のち五代将軍になった綱吉の賄い城となり250万石であったが、城主綱吉は館林城には日光社参の帰途一度立寄っただけ。 佐野…霊柩宿泊は”惣宗寺”現在でも佐野厄除け大師として有名、境内に本多正純により予め御殿が建立され霊柩を安置した。この地での家康公との誼は下野小山藩主の本多正純で関が原以来家康公の側近を勤めた武将で、特に家康公大御所時代は懐刀として権勢に在った人でしたが、家康没後は秀忠幕閣の毀誉褒貶に晒され宇都宮城の改築や吊り天井事件などで失脚、佐竹藩預け、横手で幽閉死しております。
また足尾鉱毒事件で有名な田中正造は佐野の小中村に生家があり、自由民権、国会開設運動、足尾事件など終始縁の深いお寺で正造の葬儀が盛大に行なわれ墓地もあります。…境内の東照宮遷座時安置御殿を社殿に転用のち文政11年(1828)幕命により建替え現在に至ります。
3月29日 霊柩佐野を出まし、……こよひは鹿沼薬王寺を御旅所とせらる。この所に四月三日までおはしましぬ。…佐野より40.7km…鹿沼、霊柩宿泊は薬王院。当寺での長期滞在は日光入山の都合、座禅院や東照宮の準備など日時調整かと考えら特別な意味は無い様に思われます。
4月4日  日光到着 座禅院へ。 鹿沼より29.0km…日光、座禅院に霊柩安置。 座禅院と云う寺院は現在の日光輪王寺です。霊域日光山の開祖”勝道上人”が天平時代建立の”四本龍寺”から変遷して、満願寺光明寺、座禅院となり天海大僧上により山内再び活況して、明暦一年(1655)には日光山輪王寺となり今日に至ります。
徳川家康公霊柩の日光東照宮遷座完了。
4月8日…元和3年(1617)霊柩は既に竣工なった東照宮奥の院の廟窟地下に埋葬し家康公神霊遷座の儀が行なわれた。
4月17日…二代将軍秀忠参加のもと小祥忌(一周忌)を執り行い東照大権現は遺言…下野の日光山に小堂を建て勧請せよ、神に祀られ関八州の鎮守にならん。と指示した如く鎮座いたしました。 なお奥の院、埋葬場所の宝塔は当初は木造多宝塔といわれ、のち寛永十三年(1636)三代将軍家光の東照宮大造替では石造宝塔に改造しますが、天和三年(1683)の地震で倒壊しました。 現在の奥の院”銅宝塔”は同年直ちに再建されたものです。……

上、中)世良田東照宮拝殿…初代日光東照宮拝殿を移築
下)同じく本殿

…煌びやかな日光東照宮の存在で世界遺産、国際観光地日光が脚光を浴びておりますが、三代将軍徳川家光による寛永大造替の建築物です。…、では最初の東照宮の建物は何処に在るのでしょうか?
現在の群馬県太田市世良田には世良田東照宮があります、初代東照宮を移築したものです。この地は清和源氏新田氏の祖、義重の居館跡で新田氏の傍流世良田氏発祥の地です。世良田氏の末裔と自称した徳川家康(松平元康)の始祖地とされ、徳川将軍家、縁の地でもあります。家康が清和源氏の末裔に拘った理由は色々と憶測されておりますが、その職に相応しい家柄、身分は安定した評価を得る為の世襲封建社会の見栄か?、或いは必須の条件だったのか?。
…この世良田東照宮と長楽寺一帯は閑静辺鄙な場所柄ですが重要文化財や遺構がよく整備され東毛歴史資料館もあり中近世を回顧出来る穴場的な地域です。……前へ戻る…  ……先へつづく

日光東照宮(4) 徳川家康公の世襲の誤算
(3) 家康公霊柩到着と初代東照宮の行方
(2) 家康公霊柩遷座の行程
(1) 建立 なぜ日光なのか