[歴史][探訪] 南北朝(1)−4 足利氏始祖地 足利市鑁阿寺

東京近辺に在住の方々には北関東の足利市大田市などはなぜか縁遠い場所と感じていませんか?、 お江戸は別として関八州で鎌倉にも匹敵する歴史の宝庫が、僅か80km圏にあるのです。
    
             

上)太鼓橋楼門 下)本堂と中御堂
足利市と云えば足利尊氏父祖の地であり、隣の大田市近辺は新田義貞や新田氏系列の得川氏発祥の地であり南北朝それぞれの天皇に加勢し戦国絵巻太平記の主役を演じた武者の歴史発信地です。
また、大田市世良田近辺は天下を統一し、有史以来初めて朝廷を幕府法制下に帰属させ、正真正銘日本ナンバー1を実現した将軍徳川家康公ゆかり得川氏(徳川氏)の地であり、その二代将軍徳川秀忠が家康公の遺言に従い日光に建立した初代東照宮が移築され世良田東照宮として存在します。

…では、足利氏と新田氏の発祥の由来から始めます。 武士の名門正家清和源氏八幡太郎源義家に遡ります。義家の子息源義国はその子、二男の義康に足利荘を継承させ、長男義重には現在の群馬県新田郡一帯の地域を与えて新田荘を成立させました。新田氏と足利氏は清和源氏の同祖同族だったのです。
先ずは戦国の武将足利尊氏の父祖の地下野国足利荘から……。
現在の足利市の情況は…戦前の足利銘仙で知られた繊維の街はほぼ壊滅し、鑁阿寺(ばんなじ)と足利学校に代表する重要文化財群や指定史跡などが市の中核を占める文化観光都市として活況しております。
その足利市の最重要観光資源が初代足利義康(保元二年:1157年没)が居館を構えた遺構が巨刹鑁阿寺(ばんなじ)です。 このお寺の境内は方形約四万一千平方メートルの地に周囲を水掘、土塁を廻らした戦国武士の館跡が良好に保存された有名歴史遺構でもあります。
併せて鑁阿寺の起源とは…源頼朝旗揚げに呼応して鎌倉に馳せ参じ足利一門を鎌倉幕府の有力御家人として足場を築いた二代目義兼が建久六年(1195)に出家し足利居館に大日如来を本尊として持佛堂(建久七年 1196)を建てたと言われております。

上)足利市地図 東武鉄道ASHIKAGA WALKING MAP 下)一切経
さらに三代目足利義氏が天福二年(1234)に氏寺として大御堂(本堂)を建立、堂塔が建立整備され館外に支院を設けて一山十二坊の大伽藍が出現したのです。 では足利一族は何処に?、当時、すでに北条氏をも脅かす力を蓄え広大な居館を鎌倉に構えており、鑁阿寺は足利氏、足利将軍家の氏寺として手厚く保護されたのでしょう。
戦後改訂された文化財保護法は戦前の基準と差異がありますが、現在の境内「足利氏居宅跡」は国の史跡になっており、建造物は国宝として本堂、国重要文化財として鐘楼、経堂、その他、御霊屋、太鼓橋、多宝塔東門、楼門など多数が栃木県指定建造物です。…… 
鐘楼 鑁阿寺開基以来の貴重建造物です、足利義兼が出家し、居館内に建久七年(1196)持佛堂を建立した同時期に建てられたもの。明治四十一年国宝指定。 国指定重要文化財
本堂(大御堂) 足利氏三代目足利義氏が天福二年(1234)改修建立。足利貞氏が再建、永仁七年(1299)上棟するも竣工は不明。 明治四十一年国宝指定  国宝
一切経 開基足利義兼が鎌倉時代に建立、足利満兼(関東菅領)により江戸期応永十四年(1407)再建。 国指定重要文化財
  太鼓門と楼門 鑁阿寺の象徴的な建物です。楼門(仁王門)は永禄七年(1554)室町幕府十三代足利義輝の再建。太鼓門は江戸安政(1854〜59)年間の再建。
  多宝塔 開基足利義兼の創建、江戸期寛永六年(1629)再建。元禄五年(1692)徳川五代徳川綱吉(犬公方)の実母桂昌院お玉の方の改修。 足利義兼の創建、江戸期文禄元年(1592)再建。
  御霊屋 徳川幕府十一代徳川家斎の再建寄進。源氏の祖と足利氏一門の十五代の将軍像を祀っています、本殿の裏に回りますと足利氏初代足利義康と父源義国の墓があり源氏を祖にした足利氏の成り立の歴史を語る遺構です。 石の風化が進んでいるのか柵の内側に保存され公開はしていません。…外から覗く程度。  
……境内の背後の土塁に沿って小振りながら大酉堂(おおとり)校倉(あぜくら)など並び、中でも蛭子堂(ひるこ)には奇々怪々な伝説がまつわり驚かされました。 ……先へつづく

アクセス)東武浅草駅〜足利市駅 特急りょうもう 70分

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