[江戸][天災] 東京都市災害 (6)−6 日本堤はお江戸の防災拠点

前回の浅草車善七と吉原遊廓の話の中で日本堤を取り崩し、跡地を土手通りと呼ばれる道路にいたしました。 吉原大門へのメイン道路ですが、昭和2年(1927)までは土手が残って居たのです。 現在も吉原大門交差点脇に有名な”見返り柳”の何代目か?、か細い柳が植えられております。以前は土手から遊廓に下る衣紋坂にあり、「後朝(きぬぎぬ)の遊客が未練か後悔か?、ふっと見返る場所にあった柳の木」が見返り柳の謂れです。 二代将軍秀忠の時代、徳川将軍家城下町江戸の水害軽減を目的に元和6年(1621)上野丘陵のすそ野、三ノ輪から隅田川待乳山附近の湿地帯に大堤防を完成させたもので、日本堤と呼ばれ新吉原遊廓へはこの土手道が利用され、吉原土手とも云われました。
しかし、現代の感覚では土手とは川沿いに築き河川の氾濫を防ぐものですが、日本堤隅田川から内陸方向に築堤され江戸市街の北部を遮断する不思議な土手で、この様式は明治以後の近代土木導入以前の一般的な治水手段と云えます。
……現在の荒川は昭和5年荒川放水路赤羽岩淵から江戸川区葛西)完成で、この川筋の事ですが、以前の荒川本流の下流部分が隅田川でした。…
     
図:荒川知水資料館Web資料より
荒川河川下流事務所荒川知水資料館HP
http://www.ara.go.jp/amoa/index.html
では、…歴史は古く後北条の時代、天正2年(1574)頃、文字どうり荒れる川、荒川上流熊谷附近の左岸に熊谷堤が築かれ、その下流千住附近までを荒川堤と呼ばれる部分が在りますが、総じて熊谷堤と称し、更にその下流向島小梅附近(旧水戸藩下屋敷、浅草吾妻橋上流)迄が墨田堤です。ここも既に太田道灌の手で天正2年頃完成されていた話もあります。……徳川家康公江戸入府以前に延々熊谷から向島まで連続した土手が築かれていた訳ではなく、荒川左岸の岸を堤と称したもので、要所要所に部分堤防が築かれていた程度と思われます。 この荒川左岸こと、大宮台地を利用し江戸の水害軽減を画策したのが、二代将軍秀忠で、向島小梅の対岸待乳山聖天町から三ノ輪に向けて延長860m、高さ3m、土手上道幅7、2mの日本堤を諸藩に命じ築堤したのです。…上記地図を御参照ください。荒川左岸熊谷堤と墨田堤が右岸の日本堤と連携して隅田川を挟んでV字状に構成されました。…
そのメカニズムとは…暴れ川荒川の水害、激流大増水が起こりますと、V字状堤防が築かれた隅田川は一升瓶の口の如くボトルネック状態となり一定の水量しか下流に流れません。…溢れた水で上流は広域に渡り遊水池となります。 その滞留水が江戸への流れ込みを防ぐ役目も日本堤の土手でした。 如何でしょう、お江戸の街は隅田川氾濫の水害を見事に防ぎましたが!、洪水の度毎に遊水池にされた土地の人々は!、封建時代の掟…民百姓はお上の政事に耐え、身を護るだけです。 その残滓は東京でも昭和2、30年頃までは北区浮間、志茂、足立区新田などには昔の農家の屋敷地の土盛(水塚)の名残が存在し、その上に住宅が建っているのが散見されました。…
また明治維新後の大日本帝国の明治、大正時代の治水、河川対策でも利根川水系の例としては関宿棒出し(江戸川流頭、野田市)や利根川瀬戸井、酒巻、間の狭流地帯(行田市の北約5km)などが存在し洪水時の水を上流に逆流させて地域住民の犠牲は江戸時代とさして変らなかったのです。
なぜ日本堤と呼ばれたのか?…諸説がありますが、奥州街道日光街道(吉野通り)は吉野橋(山谷堀り)附近で日本堤に接しており湿地帯吉原田圃附近では既にかさ上した土手道として存在、新たな二本目の堤、二本堤から日本堤に転化した説が有力な気がいたします。
……日本堤築堤の膨大な土は何処から流用したのか?、話は隅田川畔の待乳山へ、…更には幻の石浜城、太平記の世界足利尊氏の古戦場へと、この一帯は面白い歴史推理の場所なのです。
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《東京都市災害》
(6) 日本堤はお江戸の防災拠点
(5) 荒川大規模水害東京地区の想定データ
(4) 東京大洪水と荒川、隅田川
(3) 海中都市東京
(2) 江戸東京の災害
(1) 東京災害と空襲