[世情][昭和] 甦る記憶 (6)ー8 昭和仕事 俥夫、ボテフリ、カラス部隊

前回は大八車を曳く仕事の人、「車力」のお話などありましたが、今回は同じ車曳きでも人力車から始めますが…ま、雑談スタイルで楽な話を進めましょう。……
この人力車は我が日本人の世界的?、な発明として有名です。 主にアジアでは大変普及しました。 この、本家人力車は明治時代に盛況し大正、昭和とひきつがれましたが、昭和に入ると自動車に押され、仕事場は花街での芸者さんの足として繁盛しており、日本髪を結った芸者さんの乗り降りに便利と聞いたことがあります。昭和の4、50年頃にも見かけました。同じ車曳きですが人力「俥夫」と云い、冬の夜更けなど寒さしのぎに焼酎など飲むらしく人力車とすれ違うと、かなり焼酎臭を発散させて駆け抜けてゆきました。 
明治大正時代の人力車の様子は落語が一番分りやすく楽しい噺が残されており、桂文治さんの『反対俥』や古今亭志ん生さんの『替り目』が有名ですが今回は反対俥の粗筋を……さる旦那、今川橋から上野駅まで人力車に乗りますが動きだすと、俥夫が、かじ棒が上がりすぎ空中で足をばたつかせたり、おまけにゆっくり歩いて曳くので汽車に乗るから急いくれと言うと「わたしゃ、心臓が悪いので、走ると死んじゃうかも知れません。その時は身寄りがないので、お弔いをお願いします。」…あきらめて下ろして貰う。 丁度、客待ちの俥夫をみつけ「若いの、早そうだな」…「俺は早いよ〜」、じゃ「万世橋を渡って北へ真っ直ぐやってくれ」、……
アラよっ、アラよっと風を切って走り始め、しゃべる俥夫の唾が風に飛ばされ客にかかり、土管を飛び越えたり、旦那は舌を噛み切りそうで話もできない、ついに土手に突き当って停まった!。 よく見ると埼玉県川口と書いてある。…「北へ真っ直ぐと旦那が言うからここまで来た、上野駅でよければ戻りましょう」……
…再びアラよっ、アラよっと走り始めた、と。…「こないだは急行列車を追い抜いたが、いま汗が目に入って前が良く見えなくなった、もしもトラックが来たら避けられない」…、「お客さん保険にはいってますか?」、…「そんなもの入ってないよ」…「お客さん奥さんいますか?」、…「いるよ、二十八だ」、…「二十八で後家さんになっては可哀想だ、私が無事だったら奥さんだけでも引き受けましょう」、…「オイオイ、冗談云っちゃいけねーよ」……
と、旦那の災難でした。
次の話は商人、といっても零細な小売あきんど(商人)の実体。……
朝晩の豆腐屋さんの笛(ラッパ)は懐かしい下町の風物詩でありました。 昭和の十年代は、まだまだお江戸の延長線上で小売行商の商品は、担いだ天秤棒の両端に吊るし、体で調子をとって売り歩くのです。 天秤棒商人は通称はボテフリ(棒手振り)と呼ばれておりました。 当時豆腐屋さんも天秤棒で、磨き込んだ木目がきれな箱に油揚げ、がんもどき、盥(たらい)の中は水にうかした豆腐を担ぎ、笛を吹きながら売り歩きます。 豆腐が売れると「やっこ」かいなどと聞いて真鍮板の包丁で、好みに切ってお客の鍋などに入れてくれます。…
何んと云っても”ボテフリ”の代表は魚屋、やはり盥にいろいろ魚を入れ、売れた魚は、その場で煮物、焼き物、刺身と用途別にきれいに捌いてくれます。 …夏になると「金魚売り」、これも日差しの強い昼中売り歩くので大変です。 が…売られる金魚も大変、毎日天秤棒で担がれ、揺れる桶のなかでポッチャンポッチャンと泳ぐのですから、と子供心に思っていました。 金魚屋の呼び声も夏の風物詩、《金魚エ〜エ きんぎょ!》……
この天秤棒は荷役、運搬、土木に普遍的な道具で石炭などバルク物資の荷役や土砂など移動運搬に利用しております。
いかがですか!、今の方々に港の岸壁から艀などへ”たわむ”渡り板を天秤棒で石炭を担ぎ、積み込み仕事など出来るのか?、…私の記憶ではチョット前の風景に思えるのですが。……ここで難問、万能”天秤棒”は日本固有の文化か?、中国渡来の移入文化なのか迷っております。…
…ついでに『ボテフリ』に関わる余談。…敗戦前までのお江戸東京は口が悪く、今は御法度の差別用語など当たり前、…長谷川時雨さんの著書『旧聞日本橋』に出てくる親戚の元旗本で先祖は従五位下朝散太夫湯川一族の藤木氏で少年時代に秀才の榎本武揚をいじめた事が在るという人ですが、落ちぶれてタバコの葉きざみ(チンコッキリ)の内職を夫婦でしていた。……藤木さんはその頃が貧乏のどん底だったが、細君の前だけでは、封建的殿様ぶりを発揮して、怒鳴ってばかりいた。蜜柑箱にキンタマ火鉢を入れたのが長火鉢かわりの生活(くらし)でいて、「貴様なんぞはボテイフリの嬶(かかあ)にでもなれ。」というのが口癖で、魚売は自分よりよはど身分違い---さも低級でもあるように賤しめて罵る習慣(くせ)があったのだ。 ……その後、藤木氏は二人の娘を芸者屋に売り、結果柳橋の大きな芸者屋の主、”おとうさん”となりますが、、、忠臣蔵の殿様浅野内匠頭長短と同じ官位、従五位下朝散太夫の末裔元旗本藤木氏は事もあろうに売り飛ばした娘達の孝行で芸者屋の主に納まったお話。……

「旧聞日本橋」著者長谷川時雨さん昭和3年頃 
photo:岩波文庫「旧聞日本橋」より


余り、回り道が過ぎて私も目が廻ってまいりました。 あとは子供心に大変だな!、つらいな!、と思った仕事を羅列してみます。……
当時の下町の運河を艀(はしけ)ダルマ船などが上げ潮に乗って移動して来ます。子供の目には動いているようには見えませんが、船頭はおもて(船首)から竿を河底に差して胸に当て、とも(船尾)まで舷側を押し歩き、これの繰り返しです。潮の流れと押し歩いた分だけ大きなダルマ船が僅かに移動する作業です。……原っぱではノーパンクの小さなトラクターが運んできた巨大な丸太が置いてあります。これを縦挽きして板にする作業ですが、見たことも無い、大きな幅広の鋸で男が黙々と引いたり押したりするばかり、炎天下でも水を呑みながらの作業です。実は相当な技術が必要な仕事ですが、子供には何時になったら挽き終わるのかと、辛い風景でした。……
最後は20年位前まで朝の常磐線列車に2、3輌連結されていた行商専用車輌、ある程度の年齢の方は御存知の話です。…茨城県近在の農家の主婦?、とにかく”おばさん”達がそれぞれ野菜類を主に行商していたようです。…専用列車から電車に乗り継ぎお得意さんの待つ街へと自分の背丈程もある大きな荷物を背負いゆっくりと歩いて行きます。 屈強の登山家さんも、真っ青の光景でした。
野菜を入れた四角い笊を何段も重ね紺色の大きな布で包んだ様に見えました。髪には手拭で”姉さん被り”、服装はモンペと、あたかも統一した様に見え、新聞などは「カラス部隊」などと揶揄していました。…
御婦人とは一見、優しそうですが、生命力では既に男を凌駕し、体力でも優越した存在なのか?。
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《甦る記憶》(8) 昭和珍商売 世投げ屋、偽傷痍軍人、犬殺し
(7) 昭和珍商売 モク拾い、泣売(ナキバイ)、衛生博覧会
(6) 昭和仕事 俥夫、ボテフリ、カラス部隊
(5) 昭和の仕事 エンヤコラ、車力、馬方、汲み取り屋
(4) 昭和の消えた生活 仕事
(3) 街から消えた商売
(2) 日本国とアメリカCIAの関係
(1) 女衒(ぜげん)、華族、貴族院