[昭和][交通流通][歴史]  戦後モータリゼーション(5)−8 昭和20〜27年の歩み

最初に、この記事はモータリゼーションを往時の世相として観察し、書いた話しです。……昭和20年8月、敗戦という史上最悪の出来事は日本人に何をもたらしたのか!、結果は民主主義社会を指向するエポックメイキングでもありました。 
戦争と言う国の行為に翻弄され、家族を失い、家を焼かれ、遂には飢餓に苛まれ、戦争末期は本土決戦、一億玉砕と老いも若きも生きる事すら、平然と否定された時代から開放されたのですが、続々と日本各地に進駐する占領米軍の生活を垣間見て世界に取り残された日本社会は何も、かにも、途惑うばかりでした。 昭和20年秋、唯一動く市街電車はステップまでも人を、ぶら下げて動くばかりの街路を、突然GMCや、ウエポン、ジープなど軍用車輌の隊列が疾走し始めます。
一方市民の足の主役は都内の道路を縦横に廻らされた都電ですが、バスは焼け残りの戦前の小さな車体に代燃木炭車のガス発生炉を背負い、一酸化炭素ガスを発生させる仕組みで燃料にしておりました。
     
            
上)代燃木炭バス 神奈川中央交通復元車 photo :Lover of Romance
下)オールズモービル ツーリングサルン1937 photo :Lars-Goran


他のトラック、乗用車も、このシステムで、まるでカチカチ山の狸のように火の付いた炉を背負い”のろのろ”と移動するのです。 その後ガソリン石油も、ぼつぼつ輸入されカチカチ山も終りになります。…ついでに木炭バスに関わる逸話。
…昭和23年当時旧制中学生3年の私は学制改革で新制高校一年生に進学し、夏休みのアルバイトを友人4,5人で中野区の十貫坂下の京王帝都バス車庫で始めます。 石油燃料の大型バス導入が始った時期で、バス車庫内から不要になった木炭燃料を空き地に移動でした。…多分、請負人が安く使えるアルバイトに廻した仕事でしょう。
これが、唯の雑木を10cm程度にカットしたものを、モッコに入れて2人で担ぐ作業です。 私達が休憩していると、バスの運転手さんが来て雑談がてら、見慣れぬ少年労働者を心配してか、君達運転免許証を取ったらどうかと、熱心にアドバイスしてくれました。当時の失業は深刻で少年にまともな仕事など無かった時代です。私達はアルバイトですと云いそびれてしまい申し訳ない事をしたと、今でも思い出します。……
その間占領米軍は大規模瀟洒な家族用住宅を各地に造成、代々木公園一帯はワシントンハイツと呼び、埼玉の朝霞ハイツや横浜本牧一帯の米軍住宅などは有名です。 …当然大量のアメ車が走り回る事になり、3Aで始るナンバープレートでしたが、この大量のアメ車は帰米時など不用車に限り日本人に売却出来るのです。この中古車は忽ち官庁の公用車、政治家の自家用車、新聞社用車、企業社用車となり、更に昭和25年に朝鮮戦争が始まり、米軍による戦争特需が日本国復活のカンフル剤となり、アメ車オンパレードの自動車時代が始りました。占領軍最高司令官マッカーサー元帥使用のクライスラーが日比谷第一生命相互ビルのGHQ前に横付けされた頃です。
この時期、警視庁にパトカーシステムが導入され米軍払い下げのシボレーセダンが走っていました。
因みに当時街中を走ったアメ車は実に多様で今更、驚きです。……キャディラッククライスラー、フオード、ビュイック、パッカード、スチュードベーカー、ナッシュ、ハドソン、ダッジ、シボレー、オールズモービル、プリムス、マーキュリー、ポンティアック、位は思い出しましたが。……
     
            
上)クライスラーニューヨーカー1947 photo Lars-Goran 下)オールズモービル1957 photo Lars-Goran 

昭和27年には日本国は独立し、乏しい外貨ながらも外車輸入は業界別に割り当てられ、報道用とか観光用とか用途制限はしていました。 当時赤坂見附から溜池にかけての外堀通りには外車輸入ディーラーが集中しており、外国車名の看板などで外国の様な独特な街並みを形成してたのです。
朝鮮戦争と日本独立の重なっていた昭和27年頃はタクシーも復活し、ここも外車でヨーロッパ製のオンパレード、…ルノー4cv、フォルクスワーゲンシトロエンフィアットオースチンヒルマン、メイフラワー、モーリス、DKW、オペル、タウナスなどと、私も友人達と金を出し合い、外車タクシーに乗って、レスポンスやスピード、乗り心地、自動車の匂いなど楽しみました。…一方この時代の国産車は別の分野で全盛を極める事になります。…オート三輪車は全国隅々まで普及し地道に日本経済を支えた時代でした。
更に本格的バイク、ホンダドリームが発売されブームに火をつけ、バイクメーカーの全盛時代が始りました。…陸王メグロ、キャブトン、ホンダ、カワサキ、トーハツ、ヤマハ、スズキ、ホスク、ポインター、ヤマグチ、DSK、その他数多です。 スクーターはラビット、シルバーピジョンなど、……しかし当時のバイクやスクーターは趣味的に特化された現代とは異なり、商店、工場、などの商用車として、利用された一面もありました。……
トラック事情は定期便などが、狭い国道の砂利道を走るようになります。
大型トラックとして、ふそう、民生、金剛、など記憶にあり、日野、いすずなども在ったのかも知れません。 今をときめくトヨタ、日産は標準的な4トントラックと小型トラック、乗用車も日陰の存在で、両社とも社業を模索した時代だったのです。…… 次回へつづく…  ……前回へ戻る

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なお、オート三輪に関するバックナンバーは、……

オート三輪は戦後復興のヒーロー 続、オート三輪盛衰記

《昭和モータリゼイション》
(8) 自動車会社浮沈の根源は、
(7) バックグラウンド道路 
(6) 自動車大国の起点とマイカー指向へ
(5) 昭和20〜27年の歩み
(4) 楽しいオート三輪 ハンドリング
(3) オート三輪は戦後のヒーロー 
(2) オート三輪盛衰記
(1) オート三輪の時代