人身売買問題から社会を覗く

昨今は更なる男女性差別の撤廃運動があるようですが………女子の身売りこと、人身売買の習慣が社会生活の一面として昭和20年の敗戦まで続いておりましたが、占領軍マッカーサー司令部の占領政策により徹底した民主主義の導入により男女平等、人権尊重、発言表現の自由など先進の思想が日本国の復権と先進国への道が開かれました。
では、昭和20年以前の普遍的人身売買を覗いてみます。先ずは明治の元勲など政治家さんを調べますと芸妓などの身請で金銭を支払い妻、妾を迎える………
伊藤博文 …伊藤梅子夫人(芸妓… 稲荷町 小梅)
原敬 …原浅夫人 (芸妓…新橋 浅子)
板垣退助 …板垣清子夫人(芸妓…新橋 小清)
犬養毅 …犬養千代子夫人(元芸妓)
山県有朋 …吉田貞子 (芸妓…日本橋 大和)
陸奥宗光陸奥亮子(芸妓… 新橋 小鈴)
木戸孝允 …木戸松子(芸妓…京都三本木 幾松)

永井荷風………その他有名人などからも普遍的な人身売買社会が見えてまいります。………文学者として有名な坪内 逍遥は東大学生時代に根津遊郭の大八幡楼の娼妓”花紫”を身請して妻に迎えております。……身請と云えばこの人…文豪永井荷風さんでしょう。とにかく文学の肥やしが女性遍歴か、女性遍歴のオマケが文学か?……生涯を艶福に暮らした方でしたが、有名な日記ー断腸亭日乗ーを捲れば風俗関係の世情なども克明で人身売買の巣窟、芸娼妓に係わる情報が克明に読み取れます。荷風さんは最初の結婚を解消して芸妓八重次と一緒になるが、後は川の流れの如く女性遍歴が続き芸妓との関係では8~9人も身請けやら親元身請など奥の手も使っております。
断腸亭日乗昭和11年 1月30日
略………つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染みを重ねたる女を左に列挙すべし。 
3、吉野 こう…新橋新翁家富松明治42年夏より翌年9月頃までこの女の事は余が随筆『冬の蝿』に書きたればここに贅せず
4、内田 八重…新橋巴家八重次明治43年10月より大正4年まで、一時手を切り大正9年頃半年ばかり焼棒杭、大正11年頃より全く関係なし新潟すし屋の女
5、米田 みよ…新橋花家(成田家か不明)の抱、芸名失念せり、大正4年12月晦日五百円にて親元身受、実父日本橋亀島町大工なり、大正5年正月より8月まで浅草代地河岸にかこひ置きし後神楽坂寺内に松園といふ待合を営ませ置くこと3ケ月ばかりにて手を切る、震災後玉の井に店を出せし由
6、中村 ふさ…初神楽坂照武蔵の抱、芸名失念せり、大正5年12月晦日三百円にて親元身受をなす、一時新富町亀大黒方へあづけ置き大正6年中大久保の家にて召使ひたり、大正9年以後実姉と共に四谷にて中花武蔵といふ芸者家をいとなみおりしがいつの頃にや発狂し松沢病院にて死亡せりといふ、余これを聞きしは昭和6年頃なり、実父洋服仕立師
13、関根 うた…麹町富士見町川岸家抱鈴龍、昭和2年9月壱千円にて身受、飯倉八幡町に囲い置きたる後昭和3年4月頃より富士見町にて待合幾代といふ店を出させてやりたり、昭和6年手を切る、日記に詳なればここにしるさず、実父上野桜木町町会事務員
14、山路 さん子…神楽坂新見番芸妓さん子本名失念す昭和5年8月壱千円にて身受同年12月四谷追分播磨家へあづけ置きたり昭和6年9月手を切る松戸町小料理家の女。…以上、多数の女性の中から芸妓身請けの部分のみ抜粋しました。
長谷川時雨…更に記憶に残るのは文学者坪内逍遥は東大学生時代に根津遊郭大八幡楼の娼妓花紫を身請けして妻に迎えております。また、女流作家の長谷川時雨は自叙小説で日本橋伝馬町の我が家では親戚の元直参旗本が娘を芸妓に身売りする話を書いております。
遊郭といえば山口瞳の自伝小説『血族』には母親が横須賀柏木田の女郎屋「藤松楼」の娘でした。……落語家の桂歌丸さんの実家も横浜真金町遊郭「富士楼」……
従来の貧困農山村の少女の身売りが人身売買の常態で罷り通っておりますが都会でさえ普遍的実態があるのです。荷風日記から娘を芸妓に売った親の職業を見ますと……すし屋、大工、洋服仕立て師、事務員、小料理屋など、時雨さんの「旧聞日本橋」でも近所の八百屋の娘も売られております。
では、長谷川時雨の「旧聞日本橋」から、少女の眼を通した身売りのシーン………
……ある日藤木夫妻と娘とが、私の祖母と母の前に並んで座っていた。私もそばへ行って座った。丁度父が外から帰ってきて客の待たせてある室へゆきがけに通ると、母が縋るように言った。おあさが小蒔屋へ行くことにきまりまして-そうか、金助の家か?……藤木夫妻の望みと抱妓をほしがっている小蒔屋との交渉が、おもいがけなく私の祖母から出来上がってしまったのだった。おあさのために御馳走がならべられて、口々に褒めた。おあさは孝行ものだ、親孝行だ。父までが藤木さんに杯口を与えながらいった。おれの家でも女の子が多いから、芸妓やはじめると資金(もとで)入らずだが-
私は子供心には言いあらわせない反抗心がグイグイと胸をつきあげていた。
その時、父も厭だった、褒めそやす母は一層憎かった。普段は好きな祖母も、そんな話をしたかと思うと悲しかった。もとより、芸妓は美しいものとして、その他の悪いことは知っていようはずもないのに、なぜか、なんとも言えない泣きたい思いを堪えていた。親孝行なんて、親孝行なんてなんだ ただそう叫びたかった。