[人物][風俗]私娼の生態(2)−3  断腸亭日乗(荷風日記)より その2

永井荷風さんの随筆「伝通院」の一節に…「進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。」とあります。………しかしながら、その感慨の裏腹にどうにも成らなかった社会の不条理、伝統的社会悪に苦しんだ庶民の生活もありました。
人身売買は東北の寒村のお話のように思われている方が多数でしょうが、明治時代、東京の中心日本橋の生活を少女の目で活写した《旧聞日本橋長谷川時雨著、があります。
……『ある日藤木夫妻と娘とが、私の祖母と母の前に並んで座っていた。私もそばへ行って座った。丁度父が外から帰ってきて客の待たせてある室へゆきがけに通ると、母が縋るように言った。おあさが小蒔屋へ行くことにきまりまして-そうか、金助の家か?……藤木夫妻の望みと抱妓をほしがっている小蒔屋との交渉が、おもいがけなく私の祖母から出来上がってしまったのだった。おあさのために御馳走がならべられて、口々に褒めた。おあさは孝行ものだ、親孝行だ。父までが藤木さんに杯口を与えながらいった。おれの家でも女の子が多いから、芸妓やはじめると資金(もとで)入らずだが、私は子供心には言いあらわせない反抗心がグイグイと胸をつきあげていた。
その時、父も厭だった、褒めそやす母は一層憎かった。普段は好きな祖母も、そんな話をしたかと思うと悲しかった。もとより、芸妓は美しいものとして、その他の悪いことは知っていようはずもないのに、なぜか、なんとも言えない泣きたい思いを堪えていた。親孝行なんて、親孝行なんてなんだ ただそう叫びたかった。』……

その他近所の八百屋の娘がいつの間にか見かけなくなり、じつは芸者に身売りしていた、また町にはお妾さんがたくさん住んで居たり、女性の自立どころか、親のために娘を身売りさせる習慣が平然と罷り通っていたのです。
今回のテーマ”私娼の生態”は敗戦以前、女性が置かれていた社会的立場の具体的な一端と云えます。 ……女性の性が自立生活をする為の有力なツール、経済的手段となっていた、生きる選択だったのです。
また、只の興味本意で取り上げただけではなく秘匿された戦前社会を垣間見る意味もあります。 以下断腸亭日乗より私娼の生態をピックアップします。
断腸亭日乗大正12年6月18日 (荷風散人45歳) 1923年
雨ふる。市兵衛町二丁目丹波谷といふ窪地に中村芳五郎といふ門札を出せし家あり。囲者素人の女を世話する由兼ねてより聞きいたれば、或人の名刺を示して案内を請ひしに、四十ばかりなる品好き主婦取次に出で二階に導き、女の写真など見せ、それより一時間ばかりにして一人の女を連れ来れり。
年は二十四、五。髪はハイカラにて顔立は女優音羽兼子によく似て、身体はやや小づくりなり。秋田生まれの由にて言語雅馴ならず。灯ともし頃まで遊びて祝儀は拾円なり。この女のはなしにこの家の主婦はもと仙台の或女学校の教師なりし由。今は定る夫なく娘は女子大学に通ひ、男の子は早稲田の中学生なりとの事なり。
断腸亭日乗大正14年10月8日 47歳 (1925)
今日も空晴れず。折々雨ふる。午後食料品を購はんと溜池に出でたる帰途、その辺の喫茶店に憩ひしに、かって築地の路地に住しころ洗湯にて懇意になりし自動車運転手に会ふ。この男のはなしに霊岸島新川の河岸に荒川といふ表札出せし家あり。隠売女の周旋宿なり。赤坂見付対翠館といふ旅亭の裏鄰に中村といふ花の師匠あり。また芝白金三光町大正館といふ寄席の裏にも島崎といふ宿あり。娘二人ありていづれも客を取る。姉娘は年廿二、三。跛者なる上に片手も自由ならざる身なれど客をあやなすこと壮健の女にまさりたり。以前芝田村町にいたりしが地震後今の処に移りしなり。されど近頃市中はとりしまりきびしき故鶴見の新開町に名酒屋を出すはずなり。鶴見には亀戸向島浅草辺より移り来れるもの多し。また赤坂新町の路地に野谷といふ女あり。年は三十あまりになれど二十四、五にも見ゆる若づくりにて、下女もつかはず一人住ひをなし、自由に客を引込むなり。祝儀を過分に取らすれば閨中の秘戯をも窺ひ見せしむるといふ。以上運転手の談話を聞くがままにしるす。
断腸亭日乗大正14年12月6日 47歳 (1925)
快晴の空風もなく暖なりしかど、今日は日曜日なるを以て終日門を出でず。日曜日には電車街衢倶(がいくとも)に雑遝すること平日より甚しきのみならず、洋装の女の厚化粧したる姿など、眼に見て快からぬもの多ければなり。夜ひそかに氷川町なるかのお浪といへる怪しき女を訪ふ。いつもの如くさまざまなる話のなかに今宵もめずらしきことを聞きたり。さる処の後家、年は四十ばかりなるが、男の子の教育費に差閊へしより、二十ばかりになれるその長女と相談の上、一夜の春を鬻(ひさぐ)がしむとて、日頃お浪が親しく往来する結婚媒介所に連れ行きしに、その折来合せたる客、若き娘よりは後家と聞きてはその方が面白かるべし、諺にも四十女の泣きづめとやら行きづめとやらいふ事もあれば、是非にも今宵は母親の方を買って見たしと無理な注文に、媒介所の婆もせむ方なく、物は相談なりとて母親を別室に招き、同じく金のためにすることなれば、母親みづから客の望むがままになりたまへ、行末ある娘御を堕落させんよりはましなるべしと、馴れたる家業の言葉たくみに説きすすめて、遂に納得させしかば、その夜はさり気なく娘を先に立返らせ、後家一人居残りて情を売りしに、後家はそれより男ほしさのあまり三日に上げず媒介所に来り手世話をたのむようになりしといふ。仏蘭西自然派の社会劇『ママン・コリブ』など想起さるる話しなり。
断腸亭日乗大正14年12月21日 47歳 (1925)
風雨と共に寒気また甚だしく書窗黯澹(しょそうあんたん)たり。午後に至るも手足の冷るを覚えたれば、臥牀に横りてブルーストの長編小説を読む中、いつか華胥(かしょ)に遊べり。…略………夜初更を過ぎし頃、忽然門扉を敲くものあり。出でて見るに、過日銀座にて偶然見たりし桜川町の女にて、今宵は流行の洋装をなしたり。女子紅粉を施し夜窃に独居の人を訪ふ。その意問はずして明なり。炉辺に導き葡萄酒を暖めキュイラッソオを加味して飲む。
陶然酔を催し楽しみ窮りなし。酔中忽然として仏蘭西漫遊のむかしを想出したるは、葡萄酒の故にはあらず、洋装の女子その衣を脱して椅子の上に掛け、絹の靴足袋をぬぎすてむとするの状、宛然ドガ画中の景に似たるものありしがためならずや。帰路の自動車代を合算して十五円を与ふ。一刻の春夢寤むれば痕なしといへども、偶然二十年のむかしを回想し得たる事を思へば、その価また廉なるかな。
断腸亭日乗大正14年12月31日 47歳 (1925)
快晴。寒風午後に至りて歇む。日暮谷病院の帰途桜川町の女を訪ふ。
折好く洗湯より帰来りしところなり。銀座通除夕の賑ひを身むと、女の勧むるがまままづ銀座食堂に入りて飲む。………電車にて水天宮に賽し、歩みて日本橋に出で、自動車にて家に帰る。倶に炉辺に茶を喫し、雑談するほどもなく除夜の鐘聞えはじめしかば、女は予が新春を賀し、再会を約して、独り明月を踏みて帰れり。 予今年六、七月の頃より執筆の気力遽に消磨し、心鬱々として楽しまず。淫蕩懶惰の日を送りて遂に年を越ぬ。この日記にその日その日の醜行をありのままに記録せしは、心中慚悔に堪えざるものから、せめて他日のいましめにせむとてなり。   
断腸亭日乗大正15年1月12日 48歳 (1926)
曇りて風なく薄き日影折々窗(まど)に映ず。やがて雪にやならむかと思はるる空模様なり。晡時桜川町の女訪ひ来りし故、喜び迎えて笑語する中、食時になりしかば、倶に山形ホテルに赴き晩餐をなし、再び書斎に伴来りて打語らふほどに、長き冬の夜は早くも二更を過ぎたり。………この女の事はいかに放蕩無頼なるわが身にもさすがに省みて心恥しきわけ多ければ、今までは筆にすることを躊躇ひしなり。されど相逢ふこと殆ど毎夜に及び、情緒纏綿として俄に離れがたき形勢となりたれば、包まず事の次第を記して、後日の一噱(いっきゃく)に資す。女の名はお富といふ。父は年既に七十を越えたり。一時下ノ関に工場を所有し、頗る豪奢を極めたりし由。今は零落し芝桜川町の路地に僦居し、老妻に賄いをさせて二階貸をなせるなり。娘お富は未(ひつじ)の年にて今年三十二になれど二十七、八に見ゆ。十八の時或人に嫁して、子まで設けしが不縁となり、その後次第に身を持崩し、果ては自ら好んで私娼となり、築地辺の待合などへ出入りする中、大地震の際憲政会の壮士福田某に欺かれ、一年ばかり同棲しいたりしが、去年二月頃辛じてその家を逃れ出で、父の許に帰りていたりしかど、衣服化粧の費に乏しきまま、一時身をおとせし濁江の淵瀬はよく知るものから、再び私娼の周旋宿あちこちと渡り歩く中、行くりなく予と相知るに至りしなり。
…略………然るにお富は年既に三十を越え、久しく淪落の淵に沈みて、その容色まさに衰ひむとする風情、不健全なる頽唐(たいとう)の詩趣をよろこぶ予が眼には、ダーム・オー・カメリヤもかくやとばかり思はるるなり。 去年十二月のはじめに初めて逢ひしその日より情交忽膠(にかわ)の如く、こなたより訪はぬ日は必かなたより訪ひ来りて、これと語り合うふべき話もなきに、唯長き冬の夜のふけやすきを恨むさま、宛(さなが)ら二十年前後の恋仲にも似たりと思へば、さすがに心恥しく顔のあからむ心地するなり。人間いくつになりても色慾は断ちがたきものと、つくづくわれながら呆れ果てたり。
…… つづく… ……前へ戻る…  
    
《私娼の生態》
(3) 断腸亭日乗(荷風日記)より その3
(2) 断腸亭日乗(荷風日記)より その2
(1) 断腸亭日乗(荷風日記)より その1