[地域][探訪 船橋 市川の探訪 (3)−4 船橋という街 永井荷風、太宰治

船橋市は二番目が良く似合うところです…。 明治以来今日まで千葉県都市人口で第2位を続けております。 因みに明治3年の一位は銚子で、二位が船橋でした。 その後は大正10年千葉市が誕生して県庁所在地として台頭、2012年の統計では千葉市 963.120で一位、船橋市 610.434の二位です。 では現在の船橋の特徴とは何でしょうか?、工業、商業、漁業、東京のベットタウンなどで、、特定はちょっと難しそうです。 …そこで私好みの昔からの経緯は…、鹿島、銚子、上総への街道の要衝宿場、徳川家康公の鷹狩り御殿、成田不動参詣の宿場、東京湾最奥の漁師街から船橋ヘルスセンター一世風靡し、現在のララポートSCとつながります。 
私は埼玉在に居りますが、気晴らしの散策には度々船橋の街に足を運びますが、船橋漁港で漁船を眺め、市場の水揚げを覗いたり、今も残された浦に沿い歩いたり、迷路の如き旧漁師町には街に融けこんだお寺も多く非日常の楽しい散策探訪になります。
では、ちょっと昔…戦後混乱期の船橋は或る面では現在より有名な街でもあったのです。 食料品調達、はっきり云えば闇市で名を上げた町で千葉街道の南側湊町1丁目から2丁目町全体が魚介類を中心に商売人や消費者の買出し人で大混乱、千葉街道は大渋滞のとばっちりでした。 昭和44年JR線路の北側に忽然と船橋市中央卸売市場が出現、さすがの湊町市場も巨大施設には敵いませんでした。
     
上) 料亭玉川 下) 浅草ロック座楽屋の永井荷風
この湊町には永井荷風さんも、ちょくちょく買出しに出現したようで、序でに三田浜の割烹旅館玉川や三田浜楽園など昔で云う大廈高楼(たいがこうろう)や庭園を眺め、取って返して千葉街道の反対側一帯の元遊郭跡の赤線街も探索しております。外出のスタイルはソフト帽に古い背広、ネクタイ、下駄履き、買い物篭を下げた定番でしょうか、…
昭和二十二年、敗戦二年後の遊郭街の様子を永井荷風さんに紹介していただきます。   永井荷風著 摘録 ”断腸亭日乗” 岩波文庫 十月初七。 晴また陰。午後船橋闇市にて食料品を購い千葉街道を歩みて海神に至らむとす。道たまたま三田浜の遊郭を過ぐ。娼楼は皆喫茶店また旅館の名を仮りて営業せり。 店口に近き広間を板敷きにして舞蹈場となせる処もあり。短きスカートに毛糸のスエータ着たる女七、八人各制服の男と蓄音機を鳴らして舞ひいたれば小時佇立して窺ひ見るに制服の男は皆学生にて娼婦にダンスを教ふるなり。……船橋の女郎屋にてダンス教授をなすさまを見ては一驚を喫せざるを得ず。当今の世相は到底余の如き老人の想像しがたきものといふべし。… 
本来荷風さんにしてみれば興味深々の場所に居るのにも拘わらず”到底世相を想像しがたき老人”などと記しますが、騙されてはいけません!。 翌二十三年からは浅草ロック座などの楽屋通いが始まり胸を丸出しの踊り子さん達をしばしば訪問したり、小説 ”停電の夜の出来事” ”春情鳩の町”や映画、歌謡曲「渡り鳥いつ帰る」をヒットさせているのです。
さらに、敗戦後昭和21年頃の三田浜(NTT船橋、料亭玉川付近)の様子は如何に?、    永井荷風日記 ”断腸亭日乗” 岩波書店刊    
十月三十日。晴。午前正岡容氏来話。正午海神への途次船橋を散歩す。細流あり。水に従って行くに国道とおぼしき大道に出づ。漁家櫛比し水田渺茫として海に連なる。海岸に近きところ芦萩の間に楼閣の聳るを見る。行きて見るに酒楼二個処あり。園丁門前を掃きゐたれば景況を問うに、……
…と、現代の船橋市と余りの乖離に驚かされるばかり、如何でしょうか。
その他、随筆《葛飾土産》には散策中に京成西船橋駅(旧葛飾駅)先の「葛羅之井」を発見した経緯が書かれており、これが切っ掛けで船橋市史跡に指定れました……。
    
上) 新地遊郭廃墟(消滅) 下)太宰治夾竹桃(市民文化ホール前)

ここまでの話の順序からも船橋ゆかりの文学者太宰治に移ります。…
JR船橋駅から南へ、京成船橋駅や繁華街を直進すると10分たらずで右側に船橋市民文化ホール前広場に来ました。 そこには太宰治の文学碑と由来の夾竹桃が移植してあり説明板があります。以下
この夾竹桃は、太宰治(明治四十二年〜昭和二十三年)が、昭和十年夏から昭和十一年秋にかけて、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番(船橋市宮本町一丁目十二番九号)に借家住まいをしてた時に、その敷地内に植えられたものですが、昭和五十七年十二月、その敷地が整備されることになり、改めてこの地に移植された。 太宰治は、当時、「めくら草子」の中でこの夾竹桃を植えた時の様子を書いておりますが、戦後の作品「十五年間」では、次のように、この夾竹桃に対する自分の愛着ぶりを書き残しました。 『私には千葉県船橋町の家が最も愛着深かった。そこで「ダス.ゲマイネ」といふのや、また「虚構の春」などといふ作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければなくなっった日に、私は、たのむ!もう一晩この家に寝かせてください。玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。』
    昭和五十八年三月 船橋市教育委員会 船橋中央ライオンズクラブ
作品”めくら草子”には船橋生活の核心、夾竹桃やその木を譲り受けた隣家の娘マツ子十六歳との話が詳細に書かれて居ります。
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船橋 市川の探訪》
(4) 船橋散策案内
(3) 船橋という街 永井荷風、太宰治
(2) 法華経寺大荒行、本阿弥光悦、伊藤忠太
(1) 中山の巨刹 法華経寺