[河川][地域] 利根川の東遷事業(4)−4 江戸川、利根川 お江戸の遺産

昔は残暑お見舞いなどと葉書を書いたものでしたが…、このところの暑さにはお手上げ!、高齢者は自分で自分にお見舞いしなくてはなりません。……
今回は川のお話になりますが、日本一の関東平野に位置する東京近辺には大河川が集中して流れております。 と云うことはお江戸は関東平野の低湿地帯に出来た都、1590年徳川家康が入府以来徳川幕府の大きな事業に治水、河川管理の努力実績があり、「水を治めるもの 国を治める」の例えの如く徳川三百年の覇権に繋がっているのでしょう。
今日の大河川流路は徳川幕府の営々辛苦の努力の置き土産をそのまま利用しているのです。当然明治以後は江戸の舟運から鉄道中心のロジスティクスを反映して河川管理は高水工事に変化、治水が眼目の整備管理がされております。
注)高水工事→治水を目的として、河川の拡張、直線化、堤防を築く。
注2)低水工事→舟運に適した水深を得る為に河川を掘り下げる、又は狭水路を蛇行させて滞水による水深を得る工事。
幕府の河川改修の要(かなめ)、最大の事業は利根川流路の変更でした。昔の利根川隅田川から、東京湾に注いでいた事は御存知の事と思いますが、江戸時代にこの流れを延々長蛇の如く銚子に流路変更した事実があります。
      

           (上)三代将軍徳川家光寛永18年(1641)の流路
      

               (下)現代の千葉県関宿附近流路

しかしながら現在の利根川流路への構想、「利根川東遷事業」が幕府に最初から在ったのかは疑問で、結果を踏まえた、現代の研究者の付けた名称です。……
埼玉県に今でも残る古利根川が語る如く、天然自然の流れを堰き止め、流路変更など河川管理の必然性から利根川は人工的に東へ東へと流れを替え埼玉県栗橋附近で渡良瀬川に突き当たり、渡良瀬川の流路、権現堂川を利用して千葉県関宿経由江戸湾へ流し込んでおりました。此の時代が三代将軍徳川家光寛永18年(1641)頃です。
現在の江戸川流頭の関宿から千葉県野田市附近までの江戸川上流もこの時代に人工的に開削された部分に利根川が流れていた事になります。
その後も利根川を更に東へ流し茨城県境市附近の常陸川に繋ぎ銚子へ流下させる構想が実行されます。即ち栗橋から境まで人工河川赤堀川の掘削でした。時代は4代将軍家綱の承応3年(1654)です。文字道理”利根川東遷事業が完成し、この時点で太平洋の銚子港から河川水路が利根川、江戸川、新川、小名木川を経てお江戸に達します。 以上は大雑把な概要にすぎません、この間、関宿附近には逆川という権現堂川と江戸川、利根川を結ぶ重要な人工河川も存在するのですが煩雑になりますので省略しました。
また、その後も暫く現在の江戸川を幕府の文書などでは相変わらず利根川とか新利根川と呼び、江戸川の名称が定着したのは何時ごろか私には分りません。
俳人小林一茶文化元年(1804)に親交のあった流山の味醂醸造家秋元家に滞在し、 ”刀禰川は 寝ても見ゆるぞ 夏木立”  と江戸川をよんでおります。 
ついでに、”夕月や 流残りの きりぎりす”
       ”炭くだく 手の淋しさよ かぼそさよ”   …流山滞在時の句です。
幕府の計画は成就し徳川時代前期には物流大動脈が完成、銚子港から利根川を遡り関宿を廻り江戸川行徳から新川に入り小名木川経由隅田川江戸までのの水路を東北各藩の米や物産、銚子の鮮魚、醤油、干鰯、その他関東各地の物産が各地の河岸に集荷し大量にお江戸に搬入され明治時代にいたります。 
利根川、江戸川舟運が啓発した思想は明治維新後にも再開花し明治4年、小名木川万年橋の利根川丸商会で五十トンの外輪蒸気船が建造され就航しております。 
     
更に明治八年には続々と新造蒸気船が就航し明治十年の西南戦争時でも内国通運(日本通運の前身)が四隻の外輪蒸気船”通運丸”をもって定期航路を開業し小名木川、江戸川、利根川渡良瀬川の古河、思川の生井までの航路や霞ヶ浦の最奥部へ高浜航路が開設されました。
以後は爆発的に定期航路が開発され森下高橋、扇橋、両国などには汽船原発場として多数の蒸気船が就航し関東一円を網羅し、銚子直行便も開発され物資旅客の輸送網が出来上がります。
この大都会江戸を支えた舟運のシステムは河川用の高瀬船、沿岸の物産集積地には河岸、江戸の街には運河を廻らし街中に荷蔵を造りロジスティクスが完成しておりました。 この遺産ノーハウは近代化の進む日本の鉄道のシステムに無理なく引き継がれ江戸時代の河川水路→鉄道線路、河岸→駅、蔵→貨物倉庫、高瀬船→鉄道車両と云えるのでしょう。
昨今は伝統の物流も遂に超効率化に見舞われ革新的な思想で進化を遂げております。……
現代に至り、江戸川、利根川の役割を考えますと、防災上の要、治水の重要な骨格形成しているのです。 これは普段の河川管理や将来計画、保守点検と河川行政に負うところがあり、戦後の事を考えますと水害、大水は毎夏の恒例でしたから、今の首都圏一帯はかなり充実した河川行政下に在ると思へます。   ……前へ戻る

利根川の東遷事業》(4) 江戸川、利根川 お江戸の遺産
(3) 締め切り、廃川、開削、瀬替えで銚子へ
(2) 江戸幕府 利根川銚子放流の経過
(1) 人工河川利根川と堤防と決壊