[地域][歴史]  みなと横浜変遷記

海運を含む物流を現代ではロジステイックと云う様でして、学問の分野でも独立して、日本発の世界標準にジャストインタイムなどと在庫を置かない有名なシステムがあります。必然的に一時代前の物流手段は総て規格外の不必要なものとしてほぼ壊滅しました。 当時の実体から推移を追い、合わせて港湾都市横浜の変化を探って行きたいと思います。
まず港の埠頭には巨大倉庫が連なる風景は一種の港情緒になっておりましたが、今の港湾を御存知ですか? では横浜港の変遷をみてみましょう。敗戦前とアメリカ占領時代の横浜港の埠頭は瑞穂埠頭と高島埠頭、新港埠頭、大桟橋しかありませんでした。 アメリカ駐留軍は総てを接収しますが、瑞穂埠頭をノースピア(North pier)、新港埠頭をセンターピア(Center pier)、大桟橋(メリケン波止場)をサゥスピア(South pier)と命名して日本占領の拠点とし、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー司令官も先ず横浜ニューグランドホテルに入ったのです。占領用の莫大な物資を揚陸し市街の焼け跡を整地して金網フェンスを廻らし野積の物資集積場として利用、横浜一番の繁華街伊勢崎町通りの裏もキャンバスに覆われたアメリカ軍物資の露天集積場で市街地占領区域は広大なものでした。
昭和27年(1952)に日本国は独立し横浜港は日本に返還され米陸軍は瑞穂桟橋に集約して現在に至ります。このノースピアはバースの他に広大なストックヤードが付随しているのが特徴で大量の戦車やその他物資の揚陸に適し相模原方面のアメリカ駐留陸軍の主要施設とリンクされており、朝鮮動乱の時など重要な兵站埠頭でした。
横浜駅南に在った高島埠頭は当時の中型船(4,5千トン)用の突堤が3、4本ありましたが、昭和58年(1983)着工の”みなとみらい21”計画で三菱横浜造船所と共に消滅しております。 この”みなとみらい21”地区に含まれた新港埠頭も御存知、赤レンガ倉庫という重要文化財を残して係船バースは廃止となり商業施設に転用されました。
     
                  旧新港埠頭の赤レンガ倉庫
メリケン桟橋こと大桟橋は現在も巨大観光船用桟橋として整備されましたが、なにか芝生など植えて親水性の全くない、つまらない施設になっております。
昔は直接桟橋から巨船を見上げたり、係船用の巨大ビット、係船ホーサーにはラット返しのブリキの仕掛けがあったり、船尾に書かれた船籍港を調べたり、青く透き通る海には大きなクラゲが漂い港を満喫できたのですが!。
当時はアメリカン プレジデントラインの客船が、よく入港してました。
ここで一息、…淡谷のり子さんの「別れのブルース」から…
  <JASRAC関係の作詞削除>
昭和20年代の横浜港は以上の程度の規模で運用されておりました。そこで疑問は多数の外航船の荷役はどうしていたのか? と考えて頂ければ、当時の横浜の街の様子にも繋がるのです。 昭和30年代でも港の界隈、野毛山下や繁華街の飯屋や酒屋などは早朝から立ち飲みの人が群がります。
この人達は沖仲仕(おきなかし)と呼ばれる船内荷役の労働者やウインチマンです。当時の外航船は殆どが汎用船でデリック設備がありウインチによる積荷の積み下ろしに船倉内には多数の作業員が働いていたのです。 横浜港の入港船はバース不足で殆どが沖合いのブイ係留で積荷を運ぶダルマ船(バージ)を舷側に沢山並べて荷役をしておりました。立ち飲み客は夜間作業を終えた沖仲仕が上陸して一息入れていたのです。荷役労働者の泊る街も数箇所ありました。
当時の街の風景は、港内の艀(はしけ)溜りや街の運河には何千隻もの艀(ダルマ船、バージ)がビッシリと舫っており、セイジと呼ばれる船内居住区には船頭一家が住んでおり、確か日本水上学校と云う水上生活者の子供達を預かる学校が横浜にも在ったのですが!、
……昭和38年、横浜中華街に近い海岸よりに山下埠頭が完成します。外航船の着岸岸壁の不足を補う大埠頭でしたが、この頃から現在のロジスティクスと称する物流手段の画期的大変革が世界標準となりはじめます。即ちコンテナと呼ばれ、一度貨物を収納すれば、雨風も海上も陸上も「ドアツードア」で運ばれます。
進歩改革には淘汰が避けられません。…膨大な倉庫群が不要になり、沖取り艀(ダルマ船、バージ)は無用になり、沖仲仕の仕事が無くなりました。更に驚く事には、山下埠頭に代表される巨大バースと巨大倉庫を組み合わせた従来の埠頭桟橋の類が無用の長物と化します。 当然、新規投資が必要です。…水深の深いコンテナ船専用埠頭、コンテナ用のガントリークレーンと広大なコンテナ ストックヤードの設備、トレーラートラックと道路です。
このコンテナ採用を契機に横浜市街地のレイアウトが一変する事態を招き、従来の港湾施設は米軍使用の瑞穂桟橋(ノースピア)以外は商業施設、オフィス街、観光施設として変貌した結果、横浜港の中枢埠頭は沖合い埋め立て地へと移動しコンテナ船用の本牧ふ頭、南本牧埠頭、大黒埠頭などが利用され、荷役の機械化、高速化で危険なコンテナ埠頭は立ち入り禁止です。横浜市民といえども外航船や埠頭は、既に情緒的な存在ではなく”昔は遠くなりにけり”只の臨海都市の様相です。
…大して変哲の無い鉄の箱コンテナがもたらした話ですが、かの有名繁華街伊勢崎町通りは松坂屋デパートさへ撤退したローカルな商店街になりました。
横浜で変わりなく繁盛する街に中華街があります。昔は中華街などと云う言葉はなく、横浜南京街と呼んでおりました。私が子供の頃親に連れられて行った記憶は現在もある同発本館のような店が並びチャーシューや鳥や内臓の焼き物がウインドウに吊るした独特の異国情緒でした。一旦店に入ると店番のお婆さんはチャイナ服で纏足(てんそく)の小さな足でよたよた歩きの人も結構おりました。色ガラスをはめ込んだ部屋、大きな回転テーブル、山盛りの料理など懐かしい思いでもあります。
横浜の街から港情緒が薄れた一端にシーメンズクラブやシーメン相手のバーなども見掛けないようですが、コンテナ船の碇泊は時間単位です、また、船員も途上国の人が主流で、大きなコンテナ船といえどもフィリピン人などが運行しております。先進国の船舶も同じ事で欧米人はもとより、日本国も日本人外航船員は職業として成立っておりません。とは言え日本の海運会社の支配下船舶数は世界的に大きなものがあるのですが、国策か?、政治家の無知無能から派生した大きな矛盾とは、……全国の国立船員養成大学から高専、専門学校まで卒業生は外航海運から締め出されております。しかし、大手海運会社は自前の船員養成学校をフィリピンなどで開設し自社船に配乗させているのです。…
ここで余談、一般的には気がつかない税金の浪費!、……国土交通省運輸省)の航海訓練所という部署は学生の海技免許取得の為の航海訓練をしますが、日本丸海王丸など帆船や練習船を多数、所有運航しています。組織の既得権などでしょうか?船員に成らない学生の航海訓練と称して運用し膨大な国費を浪費しております。また昔からの海洋(商船)大学、水産高校、商船高専などに所属する膨大な練習船群も昔のままに運用し卒業生は船舶運航に関係の無い職業に就いているのですが。とくに海洋(水産)高校などは遠洋漁業就職皆無の学生に太平洋各地ハワイなどに漁撈実習、しかも壊滅寸前の遠洋マグロ延縄漁をしているありさまです。大型船舶保有の莫大な浪費を続けております。……、
ところで最後に横浜港は発展しているのか。?……結論はノーです、貨物取り扱い量、入港船などアジア主要国、中国上海と比較すると日本全国の合算でも上海港の半分に満たない、韓国釜山港に比べて横浜はソー スモールとアジアのハブ港湾の地位に及ばず、ローカル港に甘んじております。
すでにパターン化している日本国沈滞連鎖の原因は何処に在るのでしょうか? ……前総理”管”に代表される無能者の裏腹である権力欲や、或いは自分の生涯賃金を勘案し個人的欲望から政治に参入した風任せ政治家達の存在か!。あるいは日本人の資質の欠如か!。または現在の社会風潮である情緒的で無責任なマスコミによる世論リードか!。日本人がリッチになり過ぎたからか!。その他。原因はどれでしょうか!……