[歴史][人物] 本当の水戸黄門さま(1)ー2 作話の人物

福島県選出の渡部恒三民主党最高顧問さんは自ら政界の水戸黄門を任じ新聞と昵懇の仲間として発言しておりましたが、福島原発事故以来、所在も定かでないようです。私も福島原発と政治家の絡みをWebでチェックすると…渡部恒三と甥の県知事佐藤雄平糾弾で大騒ぎ中でした。お蔭で原発福島県に多い理由が見える様な気がいたしました。新聞は政局記事の信憑性を高めるために、この老人を利用してまいりましたが、肝心の時になるとダンマリを決め込みお友達の疑惑と「説明責任」追求はどうするのでしょう?…また渡部恒三は偽黄門さんと、もっぱらですが私には彼の発言からは唯の恍惚老人にしか見えず、国会議員にこの手の人が居る事事態が罪悪、即ち議員定数の再検討がいそがれます。……それでは、こちらも本当の水戸黄門様の虚像の実像です。
徳川光圀の出自、出来事などは多岐膨大に亘りますから構成上省略部分が多い筈です、唐突に思へる話が出ると思いますが、その点よろしくお願い致します。
寛永十年(1633)水戸徳川家の世子となった七歳の千代松(光圀)は水戸から上京し小石川藩邸入りし、隠居する元禄3年(1690)までの57年間をお江戸で過ごし、就藩(藩に帰る事)は僅か9回で計6年間に過ぎません。また、御三家水戸藩主は参勤交代が免除され江戸定府が認められた事も就藩が少ない理由ですが、天下の副将軍と囃されたのは講釈師さんの創作話か?幕府にその様な役職は無かったのです。
なお、以下青年期より順次話を進めますが、利用する言行記録などは、『桃源遺事』、『玄桐筆記』、『義公遺事』、『年山紀文』、等の側近、家臣が綴る光圀の生活実態の文書と有名な土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)を底本とした出版物の普遍的資料です。
先ずは吉原、千住、浅草から始めます。
初代藩主頼房の三男で出生より数奇な運命のもと世子決定に至る幸運を掴んだ少年千代松(光圀)は三代将軍徳川家光に呼ばれ江戸城中で寛永十三年(1636)元服して光圀左衛門督(かみ)を名乗りましたが、その後少年期を脱した光圀の行状は常軌を逸し乱行を重ねる素行となり派手な異装、女物の衣服を羽おり、襦袢をちらつかせて群れを成して街を闊歩、恐喝、暴行の限りを尽くす”傾き者”(かぶきもの)となります。当時の『かぶき者』”旗本奴”水野十郎左衛門や”町奴”幡随院長兵衛の話は今に伝えられておりますが、光圀も全くの同時代に同種の素行で浅草寺境内で訳もなく人を殺めるなどしております。
水野十郎左衛門は直参旗本を笠に着て悪行を重ね遂には切腹の沙汰となりますが、光圀は徳川家門御三家を嵩に屈強の武士達を供に連れての行為は水野十郎左衛門よりも数等陰湿なものに見えるのです。当然悪所通いも度を越して旧吉原(人形町界隈)、浅草寺門前、千住宿と更には湯島の比丘尼宿(比丘尼姿の私娼窟)にまで及び、この青年期の乱行は光圀の傳役(もりやく)小野角右衛門言員が「小野諌草」として諫言(かんげん)の書、十六か条の長文を残しているのです。
水戸黄門 江戸のマルチ人間  鈴木一夫著 中公文庫
……御親様の御意見御用いなく、公界の事なにとも思し召さず、ただ御数奇(すき)、御好みなされ候事ばかりに御傾き、御わがままに御振舞なされ……この青年期の乱行や性癖人格は一過性のものではないのです。
水戸黄門 江戸のマルチ人間  鈴木一夫著 中公文庫 
……だがしかし、藩主となってから三十年ほどたった、元禄のはじめになってもなお、水戸藩徳川光圀については、「女色ニ耽リ給イ、ヒソカ悪所ヘ通イ、且ツマタ常ニ酒宴遊興ハナハダシトイエリ」(土芥寇讎紀-どかいこうしゅうき)「世俗の評難スルコト、本文ニツキ四ツアリ。一ツニハ女色、ニツニハ酒宴、三ニハ悪所ノ沙汰…」……と若いころのほめられぬ習癖が、六十歳を過ぎて老境に達した身に依然としてつきまとっていた事実が、暴露されている。側近くの女中に手を出す事をやめた光圀は、もっぱら悪所で発散していたらしい。『土芥寇讎紀』はこれを評して、「第一色欲ノコト……コノ迷ハソノ根深ク、源遠シ。 止メ難キハコノ迷イナリ」と言いながらも、結局は「光圀卿ノコト、女色寵愛ノコトニ付テ害ヲナシタル沙汰ナシ」と評し、彼が女色を愛づることによって家政や政道を乱すことはなく、その身に侮りをうけることもなかった、と結論する始末である。……但し、この時期、藩主教育を逃れる筈も無く次第に身を入れて行きます。寛文元年(1661)初代藩主徳川頼房がなくなり二代水戸藩主となった光圀は長兄高松藩主徳川頼重の嫡子、綱方(夭折)、綱条の二名を養子に迎え水戸藩の世子と決めました。 この件は初代頼房の代から複雑に絡み、そもそも三男(二男夭折)の光圀が長兄頼重を押して、なぜ水戸藩世子になったか? 父初代水戸藩徳川頼房は生涯正妻を持たぬのに26名の子福者ですが片端から御殿女中に手お付け、懐妊すると”水にせよ”が口癖の変なお方で、子の多くは家来が秘して引き取り出産育生しました。
頼重、光圀兄弟もこの例に漏れず庶子ですが、認知の手順違いから長幼の序が逆転したと云われ、二代目光圀は心の負担から長兄頼重の子を義理堅く水戸藩に迎え世継ぎにしたとされますが真相は不明です。ちなみに光圀も多くの女中と交わり頼常懐妊を知り初代頼房と同様に”水にせよ”と厳命するも家来が引き取り出産させ長兄頼重殿に相談、彼が引き受け育成して後の高松藩主徳川頼常となります。結果、兄弟互いの子を養子に迎えた事になりました。なお光圀は承応三年(1654)妻として前関白近衛信尋の娘尋子を迎へますが子はありません。
     
朱舜水の設計、小石川後楽園内”円月橋”
水戸藩駒込下屋敷(現…文京区弥生一、二丁目東京大学農学部、工学部構内)ここには光圀が藩主執任4年まえの明暦三年(1657)に立ち上げた最初の史記編纂所として彰考館を置いた場所であり、また、明朝崩壊により神戸に在住していた明の学者朱舜水を寛文五年(1665)招聘し住居を提供した場所でもあります。光圀が師と仰ぐ人で、明の思想で感化し尊王指向にも影響を与えたお方です。
この人朱舜水は当時より更に330年前の文書から、延元元年(1336)湊川の戦いで自害した楠正成の話をを見つけて正成の勤皇振りを光圀に教示したと云われます。 光圀が楠正成の存在を知つたエピソードです。後に楠公の墓建立へと発展します。また、この墓碑の讃は舜水のもので、さらに光圀が書いた”嗚呼忠臣楠子之墓”碑銘も”孔子”の故事からコピーし、モジッタものです。 尊王思想の原形は大陸の皇帝に対する思想から来ている様ですが舜水の影響を受けた光圀の尊王観は当時の中国では最早時代を逸したものに為っていたとも云はれます。
”嗚呼忠臣楠子之墓”→神戸湊川神社境内、湊川神社明治新政府が国策として楠正成顕彰の為明治二年建立した神社。
学問好きの名君と戦前は囃された光圀ですが、史記編纂事業(「大日本史」三代藩主綱条が命名)も中華皇帝の故事や古事記日本書紀を追い予断の勤皇思想に結びつける歴史改ざん作業と思われます。 もっとも鎖国時代の学問の大勢も儒学研鑽か古代記紀追求しかないのですが。となると学問的には彼の行為は朱舜水の教示に従うばかりの物なのか。! この時代日本精神として”武士道”があります。現代のサラリーマンスピリッツと旧時代のサラリーマンたる武士道をよく比較すると面白いのですが、残念ながら光圀は徳川家門として主君将軍家に、二心を持つ者、時代を通して武士道に有るまじき人物に見えてまいります。
よく知られる話として徳川光圀尾張藩徳川義直の勤皇の論拠は吾も朝臣、将軍も朝臣、平等なり、…
三田村鳶魚全集四巻”お家騒動” 中央公論社
「円覚院(義直)様御伝十五箇条」 
…三家の者は全く公方の家来にてなし、今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言朝臣と称するからには、これは朝廷の臣なり、然れば水戸の西山(光圀)殿は、我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりと宣ひし由…官兵を催さるる事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好(よしみ)を思うて、仮にも朝廷に向こうて弓を引く事あるべからず、…、しかし代々の諸侯は幕府に誓詞を提出して臣事しているのですが。家康公の天下平定後に家門の誼で御三家に任じられ領土を賜わった人達、現代の云わば創業者家族として任じられた会社重役としては人倫に違(たが)う言動かと思われます。
何んと為れば元和元年(1615)施行の徳川幕府”禁中並公家法度”の下、天皇の規範には、第七条で「武家の官位は公家当の外たるべきこと。」と規定され厳格に幕府指名の武家のみ、官位取得を定めております。ちなみに、徳川光圀寛永五年(1628)出生、徳川義直の権中納言は元和三年(1617)で、両者の官位は将軍の指示指名がなければ得られないものです。面白いのは”今の諸侯は王臣にあらざるの弁”を書いた長州人がおります。
三田村鳶魚全集四巻”お家騒動” 中央公論社
……武家ニ於イテハ爵位ニ拘ワラズ、禄ヲ受クルヲ以テ君臣ノ分定ルコトナレバ、領地ノ御判物ヲ賜フコト至リテ重キ御事ナリ、諸侯ニ於テモ御朱印御頂戴ノ式至テ重キコトニシテ有之ハ、此ノ故ノコトナルベシ、既ニ御朱印ヲ以テ将軍ノ禄ヲ賜ハル上ハ、固ヨリ王臣トハ申サレズ、”人臣二君”ナキガ故ナリ、モシ王臣タラント欲スル者アラバ、将軍ノ禄ヲ辞セズシテハ能ハザルナリ……幕朝ノ臣、万石以上以下ニテ御大名旗下ノ差別アリトイヘドモ、其臣タルコトハ一ナリ、外様譜代ノ別アルヲ以テ、外様ハ幕臣ニ非ズト云者アレドモ、是亦王臣幕臣ノ差アルニ非ズ、唯親疎ノ別アルノミナリ、モシ外様ハ王臣ナリトイハバ幕府ハ同列ニシテ、御譜代ノ諸侯ハ陪臣ナルベキカ、必然ラズ、熟々(つらつら)当今ノ事体ヲ見テ知ルベキナリ、又今ノ諸侯ノ幕府ニ於ケルハ、勢ヲ以テ是ニ事(つか)ヘタル者ニシテ、心服スルモノニ非ズトイフ者アリ、然リトイヘドモ既ニ其禄ヲ受ケ、全ク君臣ノ礼ヲ執テ是ニ事フル時ハ、其君ニ非ズ、ト云フベカラズ、モシ表ハ君臣ノ礼ヲ執レドモ、内心ハ然ラズトイハバ、是レ二心ヲ抱テ君ニ事(つか)フルト云者ナリ、……では外様藩主は別として、敢て光圀の勤皇を取り立てれば三田村鳶魚著の「お家騒動」の指摘の如く家門、御三家の将軍家ゆさぶりの道具と考えられます。なぜか!自藩の存在比重の増大、いわば将軍世嗣の輩出有利の画策が見え隠れするのです。家康の武断覇権、徳川幕府の最大の欠点は国家形成、統治機構の不備です、形骸化した朝廷に武士の官位さえも委ねる幕府では、正当な国家権力として疑義を挟み将軍揺さぶりの”決め手”にと義直、光圀は考へたのでしょう。 
水戸藩が幕末に徳川慶喜(十五代将軍)の将軍就任に手段を選ばず奔走した最も光圀に類似する慶喜の父親九代水戸藩徳川斉昭の諸々の行為から、遠謀する将軍世嗣奪取の道具であつた勤皇の一面を見たように思います。 場所柄、将軍家相続に格別敏感な江戸城大奥での斉昭、慶喜父子の評判は将軍家へ、二心抱く家柄として”二心公”と呼ばれ最悪だったのです。結果は大奥お女中の噂は的を射る事になりました。なほ文中既ブログと重複部分があります、ご容赦願います。
 黄門様の乱行はまだまだ続きます、……次へつづく


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