[歴史][人物] 本当の水戸黄門さま(2)ー2 実像は語る

東京都庭園後楽園(小石川水戸藩邸)につきましては水戸藩2代藩主徳川光圀朱舜水に心酔し、その意見と設計を取り込んだ庭園で円月橋、西湖堤など中国風物を組み込み、また神田川上水を引き入れております。また庭園内には密かに「陰陽石」を据えておりますが、中国王朝志向としての円月橋、西湖堤、その他湊川神社には楠公墓碑など残され、これらの石造物は水戸光圀の単純な精神構造の顕示が読み取れると思います。

小石川水戸藩邸(東京都後楽園庭園)陰石
水戸黄門 鈴木一夫著 中公文庫』から
、……老境六十過ぎても女色寵愛の癖は続き「女色に耽り給い、ひそかに悪所に通い……」と、若き時代は云うに及ばず殿様時代も盛大で光圀の云う遊び仲間こと”悪性なる者ども”は、伊勢桑名松平越中守定重、播磨明石本多出雲守政利、宇都宮奥平美作守昌章、奥州八戸南部遠江守直政、仙台藩伊達綱宗佐賀藩鍋島勝茂、佐賀小城鍋島元武、などの大名は女色放蕩で不良大名として改易などされた面々で、なかでも御存知!伊達綱宗は吉原の高尾太夫との浮名を留めた殿様です。そのほか光圀には旗本、町人なども加わった千寿(千住)会などもあり、浅草、吉原、千住(千寿)、品川など茶屋で羽を伸ばしていた様子は、すべて光圀の書いた書簡文が残され、その内の一文      
小石川水戸藩邸(東京都後楽園庭園)陽石

水戸黄門 江戸のマルチ人間  鈴木一夫著 中公文庫
…光圀には、どこかの茶屋になじみの女がいた。 彼が”金州”とよんでいた旗本志村金五郎政豊への手紙で「楊枝(ようじ)くだされ、これまたかたじけなくぞんじ候。この楊枝にてずいぶんずいぶんたしなみ、江戸へ上り候わば口を吸わせ申すべく候」(貞享四年九月二十八日付、志村金五郎あて書簡)などと、いい気になってのろけている光圀の姿は、私たちが知っている謹厳、生真面目な明君像とは天と地ほどのちがいがある。…では、二代目水戸藩主としての治世をチエックしたいと思います。この問題も世の明君との喧伝とは大違い。とかく藩主としては情緒的行動ばかりで、財政経済に対する極端な知識の欠陥があり農民、藩士へ過酷な収奪が行われたのです。
徳川吉宗とその時代” 大石慎三郎著 中公文庫より
……そのことは『古今税務要覧』所収のいま一つの史料が裏づけている。 それは水戸藩の”附荒”(つけあら)についての史料である。
附荒というのは、本来ならば作付けされるはずの田畑が、作付けされないままに放置され荒廃している耕地のこと。 それはあまりにも年貢がひどいために農民が逃亡してしまうか、または領主が行うべき義務を負っている用水土木工事などの社会投資がなされないため、耕地が荒廃して作付けできないことから起こった。……”附荒”現象は光圀の治下で始まり、だんだん激しくなる。延宝八年(1680)には一万石の大台を超えるようになり、光圀が職を退いた元禄三年(1690)には実に六万石を超え、これも全江戸時代の最高位になっている。…水戸藩の禄高は二十六万石だから、実に全領の23パーセントもが荒廃している計算になる。徳川幕府は「民を亡所(ぼうしょ)にしないかぎり諸大名の内政に干渉しない建前だが、光圀の政治はまさに、「民を亡所」にするものであった。もし一般大名の場合なら領地没収というとこらだが、光圀は御三家だから隠居ですんだのだという解釈も成り立つのである。…延宝五年(1677)、光圀は「償金」(つぐないきん)制度といって、藩士から禄高に応じて一定の金を上納させる制度をはじめるが、これはだだでさえ楽でなかった藩士の生活を一層圧迫した。光圀の治世下、水戸藩は農民(庶民)のみならず、武士まで痛めつけられていたのである。……
この収奪は何に支出されたのか? 藩財政の三分の一を占める事業、歴史編纂(大日本史)があります。また、常陸那珂湊の夤賓閣(いひんかく)御殿や江戸藩邸後楽園造園の出費、御三家の対面保持費、江戸定府の過大出費など出納事情があったのです。さらに光圀の尊王思想は水戸藩を二分し尊王派と保守主流派との抗争に明け暮れ水戸藩士には明治維新に寄与できる人材さえおりませんでした。
黄門様の恣意的な歴史編纂では南北朝南朝天皇の正統化は有名です。 なぜか? 征夷大将軍徳川家康には清和源氏の末裔新田氏の家系を入手して松平から徳川氏に改名した経緯があります。大日本史では光圀も自称の先祖である新田氏が仕えた後醍醐天皇との誼から南朝を正統とした我田引水なっております。戦前の文部省も北朝側武将足利尊氏を逆賊に設定し糾弾すろ虚構を平然と行いました。光圀は治世でも領内の仏教宗派を邪宗視して圧迫、神道でさえ八幡神社を”八幡”潰しとして追放してしまうのです。 これは明治維新神仏分離廃仏毀釈の日本文化破壊へと通じた行為だったのです。……ついに、将軍綱吉から秘かに藩主隠居示唆が伝えられ光圀の隠居願い提出になりす。さっそく将軍綱吉から『封地に隠居の暇たまう』旨が伝えられ、元禄三年(1690)御三家水戸藩主の座を去りました。この問題はかくしゃくたる光圀が、なんと健康を理由に隠居を希望し、これに将軍が快く応じて中納言の官位を授け、ねぎらった仕掛けです。
光圀はその心情を養世子綱条宛て書簡に『君、君たらざると雖も臣、臣たらざるべからず』と認めておりました。光圀の罷免の理由は?、光圀による水戸藩家老藤井紋大夫刺殺事件との関連は? 研究者の著述から感動した部分を引用させて頂きます。
 ”徳川吉宗とその時代” 大石慎三郎著 中公文庫より
……光圀の時代の推移を読む目のなさ、またその原因でもあり結果でもある超財政音痴的行動、ためにひき起こされた水戸藩上下を完全に巻き込んだ財政破綻を救うため、その意志に反して隠居させられたのではないだろうか。幕府と水戸藩との一致した意思によって――。
その場合、藤井紋太夫は光圀子飼いの臣であったにもかかわらず、光圀の側に立って行動しなかったのではないだろうか。あるいは一歩進めて紋太夫が光圀のあとを継いだ水戸家第三代藩主綱条の世子吉孚の養育係をしていたところから、吉孚の代のことを憂えて、傷が少しでも浅いうちにと光圀隠退を積極的に推進したのかもしれない。ともかく断定する史料に欠けるが、こう考えると事件前後のもやもやした矛盾をより明快に解釈できるのは確かである……
小石川水戸藩邸にて元禄七年十一月二十三日光圀が藤井紋太夫を刺殺した模様。
 水戸黄門 鈴木一夫著 中公文庫
……ことが起こったとき隣室に侍していた玄桐が、憶測や解釈をまじえず、「目のあたりに見たてまつりし趣、書きつけ申すなり」と記録した文章が、『玄桐筆記』の「藤井紋大夫を誅せらること」である。
この日、水戸藩邸では、諸大名、旗本らを招いて能楽の遊宴が催され、多くの客でざわめいていた。 光圀はみずから「千手」を舞い終えて平服に着かえ、鏡の間で休んでいた。室内には屏風が引きまわしてあったが、光圀はなお障子を閉めさせ、玄桐に命じて、「ほかに用事が無ければ、少し話したいことがあるから来てくれ。もし忙しければ、しいて来るには及ばないが」と、水戸藩の中老職をつとめる藤井紋大夫徳昭に伝えさせた。……玄桐は紋大夫を光圀の前に案内して、自分は一段低くなった次の間に控え、同じ部屋の鏡の間寄りには、ともに西山の山荘勤務の光圀側近の士三木幾衛門と秋山村衛門の両名が控えていた。紋大夫のすがたは屏風の陰になっているため次の間からはみえないが、そこでは異変が起こっていた。話の内容までは聞き分けられなかったが、光圀と紋大夫とのあいだでは、何ごとか問答する気配が察せられ、緊迫した空気が流れてきた。しばらくしてふとのぞき込むと、上座に座っていた光圀の姿がない。「何ごと?」と、控えていた両三名が鏡の間に入ると、ちょうど光圀が紋大夫を取りおさえ、膝で首のあたりを踏み敷き、組み伏せたところだった。紋大夫は膝頭で口もとを圧追されているので声も立てられない。こうしておいて光圀は、左右の鎖骨の上のくぼみ、欠盆から一刀ずつ二度、深々と刺しとおした。…思しめしほど刺したまいて(刺し傷の)小口を紋大夫衣にて押して抜きたまうほどに、血は一滴もこぼれず。「もはやよかるべきぞ」とて立ちのきたまうに、血の胴へ落ちる音ごうごうと聞こえ候いて、そのままこときれぬ。……
事の経緯から光圀は計画的に紋大夫を呼び出して恐らく、手討ちの因果を含め、御存分にと無抵抗の紋大夫を刺殺したのでしょうが、子飼いの家臣に如何なる怨念を持ったのか、光圀は明かさず、「不慮の仕合わせ、老後の不調法」と単なる偶発で押し通しております。……
もし私が歴史上の人物を善人、普通、悪人と分類すれば、水戸光圀は戦前軍国主義にも利用され、社会に害悪を流した殿様として悪人のランク入りと断定しました。……前へ戻る

参考、引用)
日本文化史    辻善之助  春秋社
つくられた明君  鈴木一夫   ニュートンプレス
水戸黄門-江戸のマルチ人間 徳川光圀 鈴木一夫著 中公文庫  
殿様の通信簿      磯田道史著 新潮文庫
三田村鳶魚全集 第四巻      中央公論社
徳川吉宗とその時代-江戸転換期の群像 大石慎三郎 中公文庫
最後の将軍-徳川慶喜 司馬遼太郎著   文春文庫
幕末徳川の城      松戸市戸定歴史館

《本当の水戸黄門さま》
(2) 実像は語る
(1) 作話の人物