[地域][人物] 東京歴史人脈帳(3)−10  浅草界隈 水戸光圀

浅草にかかわる武家の話、今回は水戸黄門こと二代水戸藩徳川光圀です。このお方の怪しげな素行は戦前隠蔽されていたのか?、戦後は史実作家などにより解明され、若年より老境と、生涯ついて回った行為と性癖があります。では順次、素行の実情……先ずは、浅草観音境内で青年期の殺人事件から、…寛永十三年(1636)江戸で元服し光圀左衛門督(かみ)を名乗り、青年期に達した光圀の乱行を諫言(かんげん)する傳役(もりやく)小野角右衛門言員が小野諌草(いさめぐさ)として、十六か条の長文を残しているのです。
……光圀の行状は常軌を逸し乱行を重ね、派手な異装、女物の衣服を羽おり、襦袢をちらつかせ屈強の供を従え街を闊歩、恐喝、暴行の限りを尽くす”傾き者”(かぶきもの)となります。 当時の浅草観音界隈には”旗本奴”水野十郎左衛門や”町奴”幡随院長兵衛の話は有名ですが、光圀の素行も浅草寺境内で訳もなく人を殺めるなどしております。…当然悪所通いも度を越して吉原(旧、人形町界隈)、浅草寺門前、千住宿と更には湯島の比丘尼宿(比丘尼姿の私娼窟)にまで及びます。しかし光圀18歳の時、司馬遷史記「伯夷伝」(道義、倫理の書、…儒教の聖人で古代中国の王子兄弟の話)を読み感動して乱行を改め学問を目指したと喧伝されましたが?、”すっとこどっこい”戦前の歴史改ざんに過ぎず、お笑いでしかありません。

……寛文元年(1661年)水戸藩二代藩主に就任後も水戸藩政を省みず多数の学者識者に委ね日本歴史の創作?編纂にのめり藩財政は窮乏し、藩士民共に忍苦を強いられ、更に光圀は放蕩三昧の所業を続けるのです。……
殿様時代光圀の遊び仲間こと”悪性なる者ども”は、伊勢桑名松平越中守定重、播磨明石本多出雲守政利、宇都宮奥平美作守昌章、奥州八戸南部遠江守直政、仙台藩伊達綱宗佐賀藩鍋島勝茂、佐賀小城鍋島元武、などの殿様は女色放蕩で不良大名で有名な面々で、なかでも御存知!伊達綱宗は吉原の高尾太夫との浮名を留めた殿様です。そのほか光圀には旗本、町人なども加わった千寿(千住)会などもあり、浅草、吉原、千住(千寿)、品川など茶屋で羽を伸ばしていた様子は、すべて光圀の書いた書簡文が残されております。 その内の一文
…光圀には、どこかの茶屋になじみの女がいた。 彼が”金州”とよんでいた旗本志村金五郎政豊への手紙で……「楊枝(ようじ)くだされ、これまたかたじけなくぞんじ候。この楊枝にてずいぶんずいぶんたしなみ、江戸へ上り候わば口を吸わせ申すべく候」……(貞享四年九月二十八日付、志村金五郎あて書簡)などと、…(水戸黄門 江戸のマルチ人間  鈴木一夫著 中公文庫より)
話は変わり…『附荒』と云う放置された農地は年貢が重くて農民が逃亡してしまうか、領主が用水土木工事をしない為、作付けできない耕地の事ですが、…
……水戸藩の”附荒”現象は光圀の治下で始まり、だんだん激しくなる。延宝八年(1680)には一万石の大台を超えるようになり、光圀が職を退いた元禄三年(1690)には実に六万石を超え、これも全江戸時代の最高位になっている。…水戸藩の禄高は二十六万石だから、実に全領の23パーセントもが荒廃している計算になる。……更に藩士に対して…延宝五年(1677)、光圀は「償金」(つぐないきん)制度といって、禄高に応じて一定の金を上納させる制度をはじめるが、これはだだでさえ楽でなかった藩士の生活を一層圧迫した。光圀の治世下、水戸藩は農民(庶民)のみならず、武士まで痛めつけられていたのである。……(『古今税務要覧』所収資料……大石慎三郎著 中公文庫より)更に特筆すべきに陰湿な宗教弾圧があります。巷間語り継がれている”八幡潰し”と”仏教の邪宗扱い”で寺院半減淘汰があります。猜疑心の強い直情的性格が露呈します。………徳川家康の江戸入府後、豊臣秀吉時代常陸の殿様佐竹氏を秋田に移封し、その後に水戸藩を設けて11男の徳川頼房を初代藩主にします。その後、二代光圀は旧領主佐竹氏と領民の繋がりを猜疑し佐竹氏氏神八幡神社潰しを実行、また領内寺院と佐竹氏の縁を恐れ仏教の邪宗扱いで半減させています。更に決定的事件に光圀隠居後の所業は水戸藩老中藤井紋大夫の謀殺事件があります。………
『玄桐筆記』の「藤井紋大夫を誅せらること」から、…事件の起きた隣室に侍していた玄桐が、憶測や解釈をまじえず、「目のあたりに見たてまつりし趣、書きつけ申すなり」と記録した文章の要約です。……
………この日、水戸藩邸では、諸大名、旗本らを招いて能楽の遊宴が催され、多くの客でざわめいていた。 光圀はみずから「千手」を舞い終えて平服に着かえ、鏡の間で休んでいた。室内には屏風が引きまわしてあったが、光圀はなお障子を閉めさせる。……玄桐は呼ばれて来訪した紋大夫を光圀の前に案内するが次の間からはみえないが、光圀と紋大夫とのあいだでは何ごとか問答する気配で緊迫した空気が流れてきた。しばらくしてふとのぞき込むと、上座に座っていた光圀の姿がない。「何ごと?」と鏡の間に入ると、ちょうど光圀が紋大夫を取りおさえ、膝で首のあたりを踏み敷き、紋大夫は膝頭で口もとを圧追され声も立てられない。こうして光圀は、左右の鎖骨の上のくぼみ、欠盆から一刀ずつ二度、深々と刺しとおした。…思しめしほど刺したまいて小口を紋大夫衣にて押して抜きたまうほどに、血は一滴もこぼれず。「もはやよかるべきぞ」とて立ちのきたまうに、血の胴へ落ちる音ごうごうと聞こえ候いて、そのままこときれぬ。……(水戸黄門 鈴木一夫著 中公文庫を参考に記載させて頂きました。)この光圀の行った刺殺事件は以後水戸藩上下一致の沈黙を押し通し実態に触れる文書は一片もありません。自らが取り立てた藩重役に元藩主が持った怨念とは?…
……光圀が水戸藩主隠居への道筋は、藩政、財務の無能は水戸藩破綻の瀬戸際と判断した幕府と水戸藩との協議の結果が将軍綱吉の隠居指示(藩主解任)で光圀の鬱積が暴発した感情の発露が子飼いの家老藤井紋大夫への怨念に転化された節があるのです。……紋大夫が”何故身を懸けて光圀留任努力を怠ったのか”……でしょう。小心直情型の光圀と水戸藩存続に腐心する老中藤井紋大夫など藩重役とのギャップが…、この凶行に転化された悲劇と考えられます。……
……光圀の水戸藩士、領民へ数少ない贈り物の一つ……隠居後の元禄8年に奨励設置した大洗祝町旧遊郭は、水戸城下藤柄町より移設させたものです。隠居老境にあっても光圀の女色放蕩狂いは変らなかったのか?……この祝町は有名な”磯節”の一節に唄い込まれております。
磯で名所は 大洗様よ (ハーサイショネ)                   
松が見えます ほのぼのと (松がね)                 
見えますイソ ほのぼのと                       
 ………     
磯で曲り松 湊で女松                             
中の祝町 男松(中のね)                       
祝町イソ 男松        
行こか 祝町 帰ろか湊                   
ここが思案の 橋の上(ここがね)                   
思案のイソ 橋の上                           
………
祝町は那珂湊水戸藩御殿夤賓閣(いひんかく)の那珂川川口の海門橋の大洗側の入り口付近、丘上の街で往時の賑わいなど想像外の場所でしかありません。       ……先へつづく… ……前へ戻る

《東京歴史人脈帳》
(10) 皮革製造業の状況(3)高度技術の行方は
(9) 皮革製造業の状況(2) 近代化日本を支えた産業
(8) 現代皮革製造業の状況(1)
(7) 皮革産業と弾直樹、西村勝三
(6) 永井荷風 その3
(5) 永井荷風 その2
(4) 浅草界隈 永井荷風 その1
(3) 浅草界隈 水戸光圀
(2) 浅草界隈 ”武家”
(1) 武家