[天災] 東京都市災害(2)−6  江戸東京の災害

地震から一ヶ月の月日が経過、想像を絶する被害が白日の下に晒されております。さらに強力なボディブロー原発事故は三次災害か、人災か?日本国復興も容易ならない事態が考えられます。地震列島といわれる日本は自然災害も、また多く地震に台風、気象冷害、火山噴火と人々を苦しめてきた記録が残されて居ります。 また今回の災害は、たまたま東北地方でしたが自然災害に対する環境は日本全国何処も同じです、特別な場所が存在するものでもありません。
明治に入り日本国は近代国家へのスタートが始り、江戸の地が東京と改名されて現在にいたり世界屈指の近代都市と云われ国の中枢機能が集約された首都圏地域の過去の激甚災害記録を調べチェツクして見ようかと思います。 
《東京災害、江戸時代から昭和まで、 犠牲者数は推定》
1657 明暦03年 失火 明暦の大火(振袖火事) 死者不明者…100、000人
1791 寛政3年 台風、寛政の大津波 死者不明者…     
1855 安政2年 地震火災、安政の大火  死者不明者…10、000人
1896 明治29年 台風、水害     死者不明者… 
1910 明治43年 台風、関東大水害  死者不明者… 1、379人
1917 大正6年 台風、大津波    死者不明者…  1、324人 
1923 大正12年 地震火災、関東大震災 死者不明者…105、000人
1945 昭和20年 火災、東京大空襲 死者不明者…100、000人
1947 昭和22年 台風、水害     死者不明者… 1、529人
1948 昭和23年 台風、水害     死者不明者… 2、794人 
東京の自然災害地震、台風の二次災害として火災と水害があります。 水害とは大洪水と津波がありますが、津波に関しては台風による風波と海の大潮満潮の高潮が複合した津波です。これに対する逆津波(さかさつなみ)の如き現象が台風の降雨による河川上流からの過大激流がもたらす堤防溢水と決壊による大洪水です。 東京では地震による大津波の記録は見当たりませんでした。しかし地震発生の震源地の問題に過ぎず、東京湾奥の東京市街、市川、船橋千葉市津波災害の要注意地域である事に間違いありません。地震に対する耐震建築物は相対的に効果があるように見えますが、これも震源の直下型、深度、浅度の違いもあり揺れのパタンの相違から一概に評価が出来ないかも、阪神淡路大地震の高架高速道路や市街地ビルの倒壊からも油断は禁物でしょう。 では二次災害の項目別に上記記録を検証してみました。
     
写真説明 昭和二十年三月東京大空襲火災焼跡状況、隅田川対岸は本所、手前は日本橋浜町人形町付近、隅田川上流(左)すぐに両国橋があります。 ⑨両国三丁目 ⑧竪川 ⑦千歳一丁目 ①隅田川 ②新大橋 ③浜町公園 ④明治座 ⑤久松警察署 ⑥久松小学校    
《大火災》
お江戸の華は火事と喧嘩などと云われ日常的な事だったそうですが、江戸町人の中には飯より火事が大好きなどと抜かす者がいたようです。
1657 明暦3年明暦の大火(振袖火事)は江戸城天守閣をはじめ江戸八百八丁を二日間に渡り焼き尽くした世界最大の都市火災と云われ十万人の犠牲者の大半は火炎に追われ逃げ惑い退路を絶たれて焼死、或いは大川に追い詰められ水死したとされます。この大火の犠牲者は隅田川東岸幕府用地に大穴を堀り埋葬し無縁万人塚をつくりました。 この塚の上に供養の両国回向院が建立されたのが寺の縁起です。
1855 安政02年 荒川(隅田川)河口付近震源直下型地震M6,9でした。地震と大火で死者は1万人とされます。この地震では小石川水戸藩邸で藩主斉昭の謀臣藤田東湖が圧死しております。
1923 大正12年 相模湾三浦半島西岸沖を震源とするM7,9の地震関東大震災による大火で10万5千人が犠牲になりました。各地に発生した火災による死者が大半とされパタンは振袖火事と同じ状況です。象徴的被害は今の両国駅北側、旧幕府御竹蔵があった広大な陸軍被服廠跡地では避難民三万八千人が迫り来る火災から逃れられず焼死しております。この悲劇の跡は震災記念堂、現在の東京都慰霊堂として東京大空襲の犠牲者をも併せて十数万人が納骨安置されております。 構内には関東大震災の被害の詳細資料を公開する都復興記念館もあり状況を良く理解する事ができます。
1945 昭和20年3月 東京大空襲火災による焼死者10万にとされる遭難犠牲者も振袖火事以来のパタンの繰り返しです。詳細はブログ「東京都市災害と空襲」をご覧下さい。   
《大水害》
江戸時代は巨大都市江戸の生活物資搬入の大量物流手段として河川舟運が最重要な役割でした、幕府の河川管理も低水工事という舟運の水深確保の浚渫に重点が置かれ洪水は日常的な災害でした。明治新政府になると鉄道等が発達し物流手段の変化から河川管理は洪水予防の堤防や直線化など高水工事に転換します。しかし明治に入り関東大水害で東京都心部まで大洪水をもたらし都市水防が抜本的に見直されます。
1910 明治43年 台風による河川氾濫、堤防決壊による大水害は東京都心に及び、未曾有の被害が発生します。水が引くまでに約半月を要し都市機能が失われました。政府も首都水害対策に乗り出し隅田川流入していた荒川を赤羽岩淵から東京湾へバイパスさせる荒川放水路を掘削し以後この流路を荒川本流とし隅田川流入を制限し都心部洪水発生を防いでおります。 この水害の犠牲者は1379名、東京市内では死者18名不明3名でした。   
1947 昭和22年 キャスリン台風で首都圏死者1529人。
1948 昭和23年 アイオン台風では関東、東北で死者2794人。
以後占領時代も過ぎ河川管理は充実し首都東京では0メートル地帯と言えども水害から開放された生活環境が保障されております。国交省の各河川管理事務所の成果かと思います。しかし今回の未曾有の大地震が東京を直撃したとすれば万全の河川堤防、水門、高潮提の被害も考えておくべき事でしょう。
津波
江戸東京には大津波の来襲記録はありますが、地震による津波の記録ではありません。
1791 寛政3年 台風による海からの波浪が折からの大潮満潮と複合して津波となり江戸沿岸を襲いました。江東区には当時被災後に建立された津波警告の碑や波除碑が江東区牡丹町平久橋際や洲崎神社境内に残されており、この時幕府は海岸の一定の地域の居住を禁止しております。
1917 大正6年 上記寛政津波と同じく台風波浪と大潮満潮のパタンです。この津波では江東区などから千葉県に至る各所で甚大な被害を出します。とくに江戸時代以前からの行徳の大塩田が壊滅し歴史を閉じました。 徳川家康江戸入府直後に掘削した小名木川、新川は行徳の塩確保の為の有名な事業でした。 また津波が襲った深川芭蕉庵跡地から石の蛙の置物が現れ芭蕉翁の愛蔵物では?とされ深川芭蕉記念館にはレプリカが飾ってあります。
以上の結果、やはり首都圏自然災害は地震が最大の課題であり東京における二次災害の最大の脅威は火災に尽きるかもしれません。さらに過去の発生大地震震源が直下型か至近地域でした。特に注目すべき要点かと考えます。 ……次へ続く…  ……前へ戻る…  

《東京都市災害》
(6) 日本堤はお江戸の防災拠点
(5) 荒川大規模水害東京地区の想定データ
(4) 東京大洪水と荒川、隅田川
(3) 海中都市東京
(2) 江戸東京の災害
(1) 東京災害と空襲