[産業] 芝浦港南地区 (1)−4 知ってますか!、東京都芝浦と場 -2016 08 16更新-

ハンバーガー、ステーキ、焼肉、すき焼、洋食と現代食生活に欠かせないお肉のお話として、敢て芝浦と場を選びました。
明治の御一新で汐留、横浜間の鉄道が開通した明治5年(1872)頃の品川駅は海の中と云う具合でありまして、船ではないのに汽車が海の中を走っていたのです。

      
ましてや芝浦地域などは東京湾品川沖のお話となるのですが……
いくらか時代が変わりまして敗戦から昭和の三十年代、私のイメージにある往時の品川駅は鉄道の主要分岐駅ではありましたが線路の数ばかり多くて、山手、京浜の電車以外は、うら寂しいプラットホームが数多く並び駅東口には長く長く狭く狭い薄暗い地下道が僅かに通じ、立派な場末一等地であり乗降客も寂しい限りでした。
反面牛やら豚の家畜のお客様は全国各地より博労に連れられて貨車で集まり下車駅として繁忙し、引込み線は品川駅の主要業務となりますが、これは昭和13年(1938)に東洋一の東京市営芝浦屠場が開設されたのです。
品川駅に拘りますが、語り継がれる話しには、駅を利用するのはお前達だけだからと乗客である芝浦屠場労働者に長い構内地下道掘削が命ぜられたと云われます。!!  旧憲法時代のお話です。
近年この駅周辺は高層ビルが林立、ビジネスセンター化は驚くばかりで私などは異国の地をよたよたと彷徨い(さまよい)歩くような感覚になりました。
なお、この付近は通称品川と呼ばれますが行政区域は港区港南です、いわゆる芝浦は港南地区となります。
リニア新幹線の東京玄関口に決まった品川の近代オフィスビル群を眺め、先ず私が考えた事は駅前の三大先住者、東京都食肉市場と東京都下水道局芝浦処理場、国立東京水産大学、など広大な施設の存続の有無でしたが、歩き回った結果は、”どっこい”健在しておりました。 一見街並みに調和し余り違和感はありません、むしろ高層ビルに囲まれ往時より各施設は目立たない感じがするのです。
近代的ビジネスセンターと、この異質の三施設の地域内共存は世界的にも珍しいケースかと思え、今後の展開が気になりました。   注)東京水産大学 現、東京海洋大学の品川キャンパスは戦後派。
品川駅前至近の先住者「東京都中央卸売市場食肉市場芝浦と場」と正式名の施設から始めます。
その昔、品川駅東口開設の最大理由は”芝浦屠場”の存在であり、乗客の屠場労働者であった事は、上記のエライさんの言質でも想像が出来ると思います。
最近は旧施設の近代化と瀟洒な高層センタービルが2001年に完成しており昔の様な存在感は希薄になりました。

屠畜場内は場所柄開放してないようですが、ビル6階には”お肉の情報館”があり作業部門の屠畜から解体、部分選別を経て食肉製品化、冷蔵、セリ。 また主要副産物の生皮、内臓、骨などそれぞれ業者に引き取られる過程が良く分かります。
現在、”芝浦と場”の作業員は東京都職員ですが、暫く前までは慣習的取引に多少の旨味もあり、出入りの内臓業者は従業員を無償で派遣、屠畜作業に参加していた時期もあります。
しかし市場取引の近代化、明瞭化の動きは避けがたく作業員の労組結成を契機に部落開放同盟の強力なバックアップもあり、作業員のいわゆる、タダ働きは解消し身分は東京都職員となりました。

センタービルの情報館を見学して特に理解できない事実は、施設と職員に対する執拗過激な非難、差別の攻撃的文書が多数送付されて来る事でした。 またマスコミの不用意な表現なども職員の人権や士気への悪影響を憂慮する市場長の書いた抗議文書や現物の差別手紙など展示されておりますが、私が読んだ差別手紙の率直な感じは、同じレベルの言葉、文章での対応、応酬は社会人としては無理な範ちゅうに入るでしょう。
他方出版されたドキュメント本などを読むと、ベテラン職員などの自負心は、より良い食肉を提供する技能の誇りで雑音を撥ね退ける力に為っている様にも思えます。
江戸以来の差別偏見が未だに残る一部の人達には言葉を失いますが、人間が生存する根源の原理を念頭に食物の総て魚、肉、穀物、野菜、麦一粒、米一粒に宿った生命を頂戴する人生に覚醒を求める必要があるのでしょう。
余談となりますが、最近は肉以外でも関西を初めとしてホルモンと呼ばれる内臓料理は大変人気があり広く専門店も存在しますが、以前は内臓の価値は肉に比べて低いもので、昔は『抛るもの』→現在は『ホルモン』と改称されて盛んに食べられております。
また全国の豚皮の七割が東京の東墨田地域で取り扱われ明治以来の地場産業です。
ここは化粧品業大手の資生堂花王、ライオンなどの会社発祥の地としても知られ東墨田の皮鞣(なめし)しの副産物の油脂を原料とした化粧石鹸製造から今日発展した業界なのです。
私もこれまでお江戸に拘る歴史の一環として差別人権問題をHPに2,3書かせて頂きましたが、屠畜業務に対する偏見の深さには考えさせられました。
実作業を見学しておりませんのでドキュメント本を読み屠畜作業のイメージから、気が付いたことは私の体験「マグロ延縄(はえなわ)漁船」操業から、共通点は食物採取の為に、人間がその生命を奪う仕事!、第一次産業(農業、漁業など)が原点かと思います。
さらに云えば”にぎり寿司”、”刺身”は海を泳いでおりませんし、ステーキ、ハンバーガーも牧場では飼っておりません。!!……敢てくどく言わせていただくと、生きた豚を買っても、貰っても、技術無き消費者にはトンカツもソテもハム、ソーセージも食べる事が出来ません……

では、先ずはマグロ延縄漁船の操業の様子から…昭和20年代後半ですが、未だ未成年者の私は東京を脱出し銚子港の近海マグロ船の無線士で乗船…、無理やり頼んだアプレンティス乗船! 当時はまだ魚が多く、漁船の舷門から次々に引き上げるマグロ(多種類)、鮫、”かじき”、はデッキに転がり撥ね暴れるのを掛矢(大型の木槌)で頭部を撲殺、メスで腹を裂き内臓を取り出す、大鮫に噛み付かれたり、暴れる”かじき”の角で串刺しになる危険から、”かじき”の角きり作業など血の海のデッキを散水しながら作業をするのです。
もっとも当初、甲板作業はボンテン(縄の目印)運び位しか出来ませんでした。
延縄船は何10km〜100kmを超える縄を仕掛けますので操業を始めると波飛沫がブリッジを洗い荒れ狂う時化でも操業を続ける不眠不休の合間にとる食事は感覚麻痺で食べた量さえ分らなく指で腹を押して確かめる有様なのです。 但し現代のマグロ船の労働環境は知りません。
一方屠畜場は都会の近代設備ですから漁船上の様なワイルドな状態ではなく牛などの大型動物は行程中一度も床に触れず衛生的な作業ですが、屠畜の核心部分を調べてみました。
なお、屠畜作業に関しては動物の愛護及び管理に関する法律第23条 《動物を殺さなければならない場合には、出来る限りその動物に苦痛を与えない方法によってしなければならない》 が守られております。
             牛の屠畜作業行程
①スタンニング頭ずつノッキングベン(作業用の台枠で姿勢を固定する装置がある)に追い込む→安定、失敗の無い状態が成立して額の急所に火薬銃装置で穿孔とショックで気絶状態(スタンニング)にする。 又は、エヤー打撃装置で完全気絶状態にする。 
②ピッシング→額の穿孔よりワイヤーを脊髄に通して神経を破壊する。四肢痙攣による次行程で作業員の危険除去が目的。 エヤー打撃装置の場合は省略。 
③ステッキング→スタンニング状態で咽を切開して頚動脈血管を切断放血し吊り上げてさらに放血を徹底する。(心臓は動作状態が必要)この作業は肉質に重大な影響を与える行程。
一時の油断も出来ない危険を伴うものだそうで、以後の行程で肉以外の部分を分離採取して脊柱を縦割り背割り分断して枝肉として製品化したものを一晩冷蔵してセリに掛けます。
以上食肉に至る作業工程も機械やナイフを使い技能を駆使しなければ、ミートも皮革その他派生品も満足な商品価値を生み出せないのです。
『基本的な概念として人間が食物を採取する作業の実態は昔も今も”真剣な戦い”なのだと思います。』
私はその後暫く小名浜港那珂湊港などでトロール船、サンマ棒受網船など乗船体験した「イワシ殺し業」を職としておりました、苦難な海上生活でしたが、上陸した時は無線士は若い人が多いので”局長さん”などと呼ばれて港町の遊びをしっかりと覚えたのが唯一の収穫でしたが、反面悪い遊び癖を身に付けた事になりました。  
当時の漁港では漁船員は”船方”と呼ばれてました。 昔は軽口で”土方、馬方、船方”は天下の御三方と呼ばれましたが!、偉い人か、あまり偉くない人の事か、私には良く解りませんが??
つまらない話はこの辺に致しますが、最近の食肉業界、皮革業界の実態は御多聞に洩れず自由化の影響をかなり受け東墨田地区の皮革産業も衰退の兆しがあります。
……次回へ続く

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