[寺社][歴史] 江戸六地蔵 (2)ー6 品川寺 品川松右衛門と投込み寺

京浜急行青物横丁駅第一京浜国道旧東海道に挟まれ、池上通りに面して駅があります。 この旧街道を鈴ケ森方面に歩くと突然、第一番の江戸六地蔵が鎮座し見上げれる御尊顔は紛れもなくお馴染みの仏様で宝永5年(1708)建立以来東海道の旅人の無事を見守っておられます。すでに新宿太宗寺の六地蔵はご紹介したしたが、遅ればせながら鎮座6ヶ所の詳細は以下…… 


1番 真言宗 品川寺(品川区南品川三丁目) 宝永5年(1708)建立  東海道
2番 曹洞宗 東禅寺台東区東浅草二丁目) 宝永7年(1710)建立  奥州街道
3番 浄土宗 太宗寺(新宿区新宿二丁目)  正徳2年(1712)建立  甲州街道   
4番 真言宗 真性寺(豊島区巣鴨三丁目)  正徳4年(1714)建立  中山道
5番 浄土宗 霊巌寺江東区白河一丁目)  享保2年(1717)建立  水戸街道
6番 真言宗 永代寺(江東区富岡一丁目)  享保5年(1720)建立  千葉街道
    (但し永代寺は明治の廃仏毀釈で破壊、存在せず)

お地蔵さまにご挨拶して品川寺(ほんせんじ)の趣きのある山門を潜ると、広い境内は、あれ!、本堂など建物が唐風なのです。古いものか?、戦後建替えたものか、ちょっと見当がつきませんが、私はとっさに火葬場(昔の焼き場)の様に見えました。 大体お寺の本堂は新旧を問わず嵩上げした上に回廊を廻らしたりしたものが多いので平地の高さに御本尊さまの本堂が珍しいのかも知れません。

お堂の中はほっとする親しめるお寺さんの雰囲気でした。最初の伽藍は大田道灌の建立で、その以前を遡ると品川区屈指の古刹といはれます。
この品川寺界隈南品川3丁目附近が品川宿北宿の外れになります。 江戸時代品川寺脇には松右衛門を名乗る非人頭の役所(屋敷)と溜めがあった場所で、浅草溜の非人頭、車善七と江戸を二分する存在でした。 記録によりますと抱え非人の居住小屋と預かり罪人収容の品川溜があり、百四十三軒、小屋頭四十二軒の配下が住んでいたのです。 溜めで預かる罪人とは重罪人は小伝馬町、それ以外を奉行所は非人溜めに収容させ、また小伝馬町牢の病人なども溜めに預からせていたのです。 そこではかなりの罪人が命を落とす情況であって、その人達を投げ込むお寺さんも近くに存在しております。
松右衛門配下の非人達の職掌は溜め御用役であり、また浅草弾左衛門配下の長吏の采配で鈴ヶ森刑場の管理、罪人仕置き手伝い、あるいは江戸流入の潰れ百姓(野非人)の刈込みや追い返し、盗人やキリシタン、捨て子などの見張りなど、司法に拘わるお役人の仕事のようです。
が、本来の非人に課せられた厳しい分限は土地建物の不保持、物造り売買(製造業)の禁止、髪形、服装の特定、生活手段としては斃牛馬処理と目黒川を利用した皮鞣、河川不浄物片づけ、乞食をする権利、番太、番太郎と称する各種番人など制約され、明治の御一新で醜名除去で平民となるも、財産をもたず、職掌選択を奪われていた環境から、貧困細民として社会復帰には永い苦難の生活が続いたのです。 
この東海道旧道は只の商店街ですが山側には櫛の歯のように路地があり江戸以来の寺院などが多数存在し目からウロコの遺構など興味があります。なお、第一京浜国道の山側も見逃せない歴史宝庫です。鮫洲駅近くの東大井4−6には土佐山(土佐藩屋敷跡)上に山内容堂墓所が彼のたっての願いで建立されております。


投込み寺、海蔵寺無縁塚
更に第一国道品川方面には……仙台坂(暗闇坂)と元仙台藩下屋敷のあったところ、…その先、品川よりが海晏寺、江戸時代の紅葉の名所、現在は岩倉具視一族、松平春嶽と家来由利公正中根雪江などの墓所が在りますが、何故か?この方達の塋域(えいいき)は参詣禁止で望見すら拒んでおります。…侵入者は警察に通報します。と看板をかけてありました。…墓参が警察行きでは?、御注意を……
さて、先の投げ込み寺の話ですが第一国道をさらに歩きジェームス坂の道が国道との交差点で、…僅かに坂の方向に入る場所に海蔵寺入り口があり、「江戸時代無縁並首塚 関東大震災殃死者塚」と刻された大きな石塔が建ててあります。
このお寺には先の品川溜での多数の預かり罪人の遺体や、また鈴が森刑場で梟首の髑髏などの投げ込み、品川宿の遊女の投込み寺と云われ、その他江戸時代の飢餓、津波などの横死者の供養の石仏、供養塔などを集めた大きな塚が出来ておりました。
海蔵寺品川区南品川4−4−2
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江戸六地蔵
(6) 浅草、巣鴨と孝明天皇急死疑惑と旧中山道の因縁
(5) 深川永代寺の廢佛毀釋と破壊の真実
(4) 深川霊厳寺 芭蕉庵と小名木川(二)
(3) 深川霊巌寺 清澄白河界隈と紀伊国屋文左衛門(一)
(2) 品川寺 品川松右衛門と投込み寺
(1) 新宿太宗寺と界隈