[寺社][歴史] 江戸六地蔵 (5)ー6 深川永代寺の廢佛毀釋と破壊の真実

今回は江戸六地蔵の第6番真言宗永代寺(江東区富岡一丁目)に享保5年(1720)建立のお地蔵様が明治初年破壊され寺も廃寺になった経緯を調べてみました。
……明治新政府神仏分離令から国家神道こと神国日本思想の実践国家の原理が成立いたしましたが、僅か77年後には無条件降伏と未曾有の戦禍犠牲者、国民生活の破滅で終結いたしました。この薩長主導の明治新政権は徳川幕府の治世に遠く及ばず……依拠した思想は徳川武家政権に倦む江戸国学者努力の新思想でしたが、それは空しき発想の証しであり、何んとなれば、あくまでもお話である記紀神話を根源に据えた日本歴史の創作と云うかなり乱暴杜撰な作業が見えてまいります。
近代化の兆しが見え始めた世界の思想、文化の動向を鎖国で察知出来ない国学者さん達はあたかも「井の中の蛙」で井戸の中の文化、即ち本家では使い古しの中華文化を利用した創作思想なのでしょう。……が、残念なのは吉田松陰が下田でペリー提督のボーハタン号密航失敗は探求思考の深さを感じさせる事件で、成功していたら日本国の先祖帰り思想の警鐘になったかも知れません。……それにつけても「温故知新」…その逆はノーグットです。


photo…富岡八幡宮
では、深川門前仲町にあった永代寺六地蔵神仏分離令下の廢佛毀釋で神祇官の槍玉にあがり破壊された経緯を追跡してみます。……そもそも門前仲町とは永代寺門前の事で、現在の深川不動尊富岡八幡宮の事とは違います。 永代寺創建のお話として…八幡宮御由緒によれば”長盛法印”なる人が当地一帯を埋め立て広大な土地を造成して寛永4年(1627)三代将軍家光の時代に富岡八幡を創祀しました。 そこで”長盛法印”さんは更に神社の別当寺として永代寺を創建し初代住職に納まり八幡さまの監理にあたりました。…以来代々の住職が引き継いで富岡八幡を監理運営してきた事になります。しかし明治の御一新で政府は神仏分離令のもと、神社の監理を別当寺から政府神祇官職掌として国家監理とした事で富岡八幡の創祀者である永代寺住職は自らの広大な神社を失う大ピンチに遭遇いたします。
また、当時の世情は国学者などは仏教を外来宗教とし寺などの財産や地位を剥奪したり、僧侶の下に属する神官達がお寺を破壊したり土地を奪う、僧侶の神職への転向禁止、仏像、仏具、経典の破壊など、いわゆる廃仏毀釈が激化していたのです。……
と云う情況下の結果論として、政府神祇官八幡宮別当寺永代寺住職の交渉の結末は永代寺の廃寺、但し住持は富岡八幡宮神官に転出でした。…大寺院永代寺を廃寺に追い込んだのは政府神祇官のお手柄、…永代寺住職の八幡宮神職転出は自ら創建した大神社の政府収奪を逃れた実利ありと想像でき両者の納得出来る結果か、……


photo…本社宇佐八幡宮主神の僧像八幡大菩薩応神天皇
長盛法印の子孫永代寺16代住職「周徹」は名を富岡有永と改め神官に改宗しました。 但し政府の思惑とは違い”長盛法印”さんの勧請した八幡宮とは宇佐八幡を御本社とする仏教色の強い神社で八幡神八幡大菩薩を名乗る応神天皇で僧形八幡神像画も残されており、明治迄の宇佐八幡は境内神宮寺の弥勒寺と一体で宇佐八幡宮弥勒寺と名のっておりました。……と云う訳で現代と違い僧侶から神官への転向にそれ程不道義感はなかったのかも?……
その昔の永代島が深川へと発展した基となった富岡八幡宮ですから、特別な敬慕を住民から受けて現在では戦災の焼失を乗り越え緑の多い境内は下町のオアシスの趣きさえあります。残念ながら廃寺された永代寺は今の深川公園、不動尊、一帯が境内でした。現在の永代寺とは旧塔頭吉祥院が名前を引き継ぎ不動尊参道にあるお寺さんです。門前には其角せんべい店があります。……先へつづく…  ……前へ戻る

江戸六地蔵
(6) 浅草、巣鴨と孝明天皇急死疑惑と旧中山道の因縁
(5) 深川永代寺の廢佛毀釋と破壊の真実
(4) 深川霊厳寺 芭蕉庵と小名木川(二)
(3) 深川霊巌寺 清澄白河界隈と紀伊国屋文左衛門(一)
(2) 品川寺 品川松右衛門と投込み寺
(1) 新宿太宗寺と界隈