[地域][歴史] 江戸六地蔵 (6)ー6 浅草、巣鴨と孝明天皇急死疑惑と旧中山道の因縁
第2番の曹洞宗 東禅寺(台東区東浅草二丁目)宝永7年(1710)建立(奥州街道)は明治通り泪橋交差点を南へ山谷の旧ドヤ街の外れ東浅草2丁目の路地裏の東禅寺門前に鎮座されてます。 普通は人目に付かない下町路地の場所柄で、その昔の事情はともかく現代では六地蔵の内で話題性の乏しい、知る人ぞ知る存在なのかもしれません。
photo…左)浅草東禅時 右)巣鴨真性寺の江戸六地蔵
……と云う事で勝手知った巣鴨の第4番 真言宗真性寺(豊島区巣鴨三丁目)正徳4年(1714)建立(中山道)へ急ぎ移動しました。……
巣鴨地蔵通りはおばあちゃんの原宿と云われ東京の話題のスポットですから楽しみは一入で、JR巣鴨駅から板橋方面に僅かで左に切れ込む旧中山道の入り口にある寺院真性寺で笠をお被りになったお地蔵さまの御尊顔を参拝、早速賑やかな地蔵通り商店街こと旧中山道の散策です。
この商店街の中心が、とげぬき地蔵の高岩寺さんで明治24年(1891)上野駅脇の(現岩倉高校)敷地から移転の地蔵尊で善男善女の信心を集め境内は何時も賑わい、中でも石の観音様を水で洗う行事が人気で順番待ちの立派な柵が出来ています、が……今回は寒い一日と云う事で、何やら並んでいるお方が少なく、お年寄りの信心とは可なり臨機応変なのかも?……この街は何時来ても気取らない雰囲気が魅力で、どちらかと云えば高齢者にマッチした雰囲気なのか?、…なかでも私の弛緩した感覚でさえ目が覚めるインパクトは赤パン専門店です。ご覧のようにお店は赤パンで眞赤っか!…私も最初来た時はふらふらっと、赤ふん二丁を衝動買いしましたが、身に付ける事もなくセロハン袋のまま何処かに仕舞ってあります。”止せばよかった爺いの赤ふん”と、序でに、昔は…”フンドシは向こうから外れるもの”が男の常識でしたが、過って読売新聞にデパートのインナー売り場で女性に人気との記事がありました、御使用者様はどの様なご感想か気になっております。……などと、くだらない事を考えているのが楽なのですが、本題に戻ります。
旧中仙道(地蔵通り商店街)がらみ、この街道は江戸幕府の14代将軍徳川家茂に降嫁した孝明天皇の妹、和宮の行列が京都からはるばる通過した道でもあります。…徳川家康公の差し置かれた将軍家の復権を目指し奮闘した最後の大老、井伊直弼が凶刃に倒れ、最早レイムダックに堕した幕府の生き残り策で最後の賭けが公武合体の筋書きとなり老中安藤信正、久世広周の画策が実現しました。 この行列が154年前の文久元年(1861)11月15日地蔵通り商店街を通り過ぎた事から気が付いた事は、行列の一員だった随行勅使岩倉具視です。 岩倉具視とは……維新動乱の時代朝廷内にも下克上が及び、公家岩倉具視は日米修好通商条約の勅許問題に絡み御所で”廷臣八十八卿列参事件”を起こします。が、結果は公卿実力者として天皇に認知される端緒となりました。孝明帝の信認厚い岩倉具視は「和宮降嫁行列の随行勅使として抜擢さています。 本来、下級公家出身の彼は幕府老中との会談などは不可能ですが、随行勅使の身分と強力な弁舌、交渉力は老中を捻じ伏せ、揚句の果ては14代将軍徳川家茂に前代未聞の自筆の誓書を書かせたのです。 しかし、この風雲児行動派公家も三条実美との争いで敗れ京都御所から追放蟄居させられます。世に云う「四奸二嬪(しかんにひん)」の追放事件です。ここからが岩倉具視の孝明天皇毒殺疑惑の状況舞台が始まるのです。…その後岩倉は天皇の叡慮を賜わる事も出来ず、更に因果は巡り、長州藩による京都御所”蛤御門の変”で長州藩系公家三条実美らは孝明天皇の逆鱗に触れ京都追放、世に”長州七卿落ち”の処分と朝敵長州藩征伐の勅語と節刀を徳川慶喜に与えております。
更に、更に朝廷から尊攘派公家の一網打尽閉門申し渡しの事件が発生します。 即ち岩倉具視の画策とされる子息岩倉具経、養子岩倉具綱、実姉の嫁ぎ先中御門経之、大原重徳など尊攘派公家22名を集め慶応2年(1866)8月30日京都御所に列参し、孝明天皇の執権に抗議する箇条書(追放公家復帰を含む)を提出して朝廷を威嚇した世に云う”廷臣22卿列参事件”です。…孝明天皇は激怒、断固決断し尊攘派公家は朝廷から締め出されました。……この期に及び孝明天皇が心を開く相手は公武合体の相手徳川将軍家徳川慶喜や京都守護職会津藩主松平容保などでした。…が、廷臣22卿列参事件後の僅か3ケ月後の慶応2年(1866年)12月25日に突然孝明天皇不審の急死事件が発生したのです。………と云う結果の過程の一面として、当時の天皇家は…典侍中山慶子が生した孝明天皇の御子祐宮(さちのみや、明治天皇)13歳が慶子の父、尊攘派公卿中山忠能家に預けられており、朝敵長州藩、閉門公家の復権による王政復古の選択肢は幼少天皇即位実現に搾られたのかも?………
後日談……明治政府の孝明天皇急死は痘瘡(天然痘)と公表されております。砒素中毒死説側は…御九穴よりの大出血の悶絶死は砒素中毒の症状と主張、一方、痘瘡罹病者の1%にも上記症状の”出血型痘瘡”の存在説もあります。
……確立的な見方によっては病死説1%、砒素中毒死説99%も考えられるでしょう。
……おわり… ……前へ戻る…
《江戸六地蔵》
(6) 浅草、巣鴨と孝明天皇急死疑惑と旧中山道の因縁
(5) 深川永代寺の廢佛毀釋と破壊の真実
(4) 深川霊厳寺 芭蕉庵と小名木川(二)
(3) 深川霊巌寺 清澄白河界隈と紀伊国屋文左衛門(一)
(2) 品川寺 品川松右衛門と投込み寺
(1) 新宿太宗寺と界隈