[時事] [産業] 芝浦港南地区 (3)−4 水産業と東京海洋大学 

週末に久しぶりに銚子漁港に行ってまいりましたが、その繁忙ぶりには目を見張るばかりでした。昔は見たことも無い5〜600トン程の巻き網船団所属の大型魚運搬船が岸壁を埋め尽くしサバ類の水揚げをし、サンマ大、中型漁船が全国から集まり水揚げを済ませて舷々接して碇泊しております。
全国の巻き網船団とサンマ漁船が銚子近海に集中している状況か!、巻き網船団は漁場が多少遠く昼間は海域に漂泊し運搬船だけがピストンで魚を水揚しているのでしょう。
     
           
一方、サンマ漁はこの時期の操業は私には前代未聞なのです、例年ですと、10月か11月には漁を切り上げます、富山県の船の漁撈長の話しでは銚子3〜4時間沖には魚群がバラケたり集まったりしており、獲れば値がよく、漁は12月25日位まで続くのではと云っておりました。漁場が近く毎日水揚げと燃料代が掛からない訳で、おまけに魚価が良いとくれば計算は簡単かもしれません。 北海道厚岸の船や長崎県の船も見かけました。話しは飛びますが今年のサンマは不漁と高値が新聞で喧伝されましたが、その後の実体はスーパーの魚価にしても安いくらいで推移して来ました。 今年の水揚げ量、魚価など昨年と比較すると、どんな結果か?、……
ところで、魚の話しから思いつき!、My HPのファイルに東京海洋大学訪問記がありました、早速乗り換えます。
首都高速道路1号線芝浦付近で見える古い帆船と広いグラウンドの学校が国立東京海洋大学です。品川駅港南口から約15分の場所にあります。 附近一帯はオフィス街と高層マンションの街に一変しましたが、品川キャンパス内はさしたる変化はなく緑の多い落ち着いた雰囲気です。初めに、東京海洋大学東京水産大学東京商船大学が合併し、品川キャンパスは東京水産大学が前身です。この学校のイメージは水産講習所、水産大学の漁撈科とか漁業科、製造科、養殖科と明瞭な実務者養成の実学ですが、継承があるか!、越中島の旧キャンパスと共に特に興味がありました。
それでは正門から校内探訪します。 本校施設の内、鯨ギャラリーと水産資料館、図書館、首都高速沿いのグランド隅には文化財の雲鷹丸(うんようまる)が一般にも開放され見学もできます。校内レイアウトは正門より直線のメインロードの左右に教室、講堂、研究室の建物が散在し突き当たり左折すると雲鷹丸に至ります。先ず手前から鯨ギャラリーには北洋アラスカ半島沖で1956〜1968年、国の調査捕鯨で捕獲された”セミ鯨”の全身骨格の展示館で世界最大級の標本です。さらに巨体の白長須鯨を想像すると単純に食料資源と見れば効率的な魚、動物?かも知れませんが、限られた個体数は文明化された世界人口の対象食料資源には無理でしょう。
ギャラリー先を左折すると水産資料館があります。正面脇の芝生にはキャッチャーボート捕鯨砲など展示してあり、館内展示物は大学所属の練習船、調査船など歴代の船舶の紹介、海洋生物の標本、各種漁労機具、システムの解説などは見学者にも理解が可能です。しかし現代の漁業衰退の実感からは本大学の沿革のメモリアル展示の様に見え、最も知りたい大学改革後の指針、カリキュラムは展示物から、部外者はさっぱり解りませんでした。
     
            
メインロード右側には中部講堂があります。 林兼創業者の次男、大洋漁業の三代目社長中部謙吉の寄贈になる建物です。
プロ野球大洋ホエールズの異色オーナーでも有名でしたが。 この会社は世界の海洋、極洋を舞台に数万トン級の母船工船や先端の遠洋漁船を多数駆使した会社で日本水産と共に漁撈の代表的会社で、謙吉氏の時代は最盛期であり、東京水産大学も人材供給の重要な学校だったのでしょう。当然日本国の発展時代の蛋白源供給の役割を水産界が果たし、更には外貨獲得にも貢献した実績は評価賞賛されるべきと思います。 
では私の最も興味のある文化財、雲鷹丸見学に参ります。途中女子学生の姿も多く学校のカリキュラムの変化の雰囲気は感じましたが、教室の屋上には航海機器のレーダースキャナーやビーコンのループアンテナが見え実学の航海機器講堂の実態を覗いてみたい気もしました。雲鷹丸は唯の古い帆船にしか見えませんが、調べますと、相当意義のある船と再認識となるのです。
明治42年(1909)大阪鉄工所建造の鋼鉄船で、水産講習所の研究練習船として主にカムチャッカ半島海域の漁場の開拓に貢献しており、カニ工船事業の創始、北洋サケマス母船式事業、また捕鯨の開拓など、まさに日本近代漁業の礎の足跡があります。  国の登録有形文化財です。 
ところで、私には校名もカリキュラムも曖昧に見える東京海洋大学ですが、DNAは何辺にあるのか、水産業界の時代推移を追えば明確になると考えました。
水産講習所、水産大学出身者を必要とした産業は資本集約、労働集約を共に兼ねた大手水産業界で、戦前から民需産業では社会的にも大きな存在意義があります。日本の水産業界は工船母船式の合理的漁業を大正時代に確立し蟹工船に始まり昭和時代初期には母船式”さけます”、南氷洋母船式捕鯨に進出します。 北洋カムチャツカ海域の日本漁船団操業にはソビエトロシヤの干渉を排除する為、帝国海軍の駆逐艦などが護衛した経過からも国策としての事業だったと考えられるでしょう。
水産業東京海洋大学 ②



昭和16年(1941)大日本帝国は”主権者”昭和天皇の米英両国に対する宣戦布告の詔勅による第2次世界大戦に突入し遠洋漁業は壊滅しますが、昭和20年8月敗戦が決定し、以後、米占領下の日本国表示名は"occupied japan"となりました。しかし敗戦後窮極の食料不足の中、水産業界は昭和21年12月には南氷洋母船式捕鯨をGHQの再開許可をとり米軍監督官を乗せて出漁します。 それは残存した劣悪戦標船をかき集め、国旗掲載は許可されず、スキャジャップ旗を掲げての操業でした。
以後は毎年、水産大手各社の母船団が参加し収益をあげますが、各国との競合も捕鯨オリンピックと云われ、激しい収奪は資源枯渇を招き、1982年IWCの商業捕鯨禁止決議となり、1986(昭和61年)を最後に日本の捕鯨事業は終焉しIWC加盟国の商業捕鯨は禁止されました。
水産業界が捕鯨事業から多大な恩恵を得た事は云うまでもありません。象徴的な話! かのプロ野球大洋ホエールズ球団オーナー中部謙吉氏の言。『鯨の一頭も余計に獲れば選手や職員の給料ぐらいは払える』……
当時の大洋漁業の利益の6割以上が南氷洋捕鯨の貢献と聞いた事もあります。
ここまで話が進めば感謝の気持ちからも食卓上の”くじら”となるのですが、飢餓の時代昭和22年頃から鯨肉が普及し始めます、貴重な蛋白源として南氷洋捕鯨の膨大な食肉供給は子供達の学童給食、又家庭の食卓には”クジラベーコン”、大和煮缶詰、晒しクジラ、鯨テキ、南蛮漬、生姜煮など多彩になり、私の酒の肴の願望はいまだにクジラベーコンです。当時、牛肉などは高価で、家庭でも”すき焼き”などは高嶺の花でした。 時代が移り海外渡航も自由になりアメリカ土産にビーフのブロックが流行った頃も記憶にあります。 平成3年(1991)以後、牛肉自由化の時代になりました。
よく言われる日本の食文化ですが、鯨肉は一部の伝統的漁村では捕獲食用してましたが、一般の食用普及は南氷洋から赤道を通過する過酷な長距離大量輸送技術の開発と蛋白資源の欠乏から始まり、日本伝統の文化と云うには無理、食料過渡期のニッチな食物だったに過ぎません。
最も驚いた事は各国捕鯨船団は鯨油採取以外の膨大な赤身は海中に投棄しており、戦前日本の捕鯨船団も同様でした。
捕鯨の時代は終わりましたが大手水産業界の母船工船式漁業は北洋で鮭鱒やカレイの捕獲、数千トン〜5千トンの新鋭大型トロール工船では、”すけとう”のフイッシュミール(冷凍すり身)製造、各種魚類やオキアミを求めて地球の最果てまで進出しましたが、ついに資源枯渇に加え昭和46年(1971)ブラジルの領海200カイリ宣言に端を発した各国の200カイリ漁業占管区域設定は、資本集約型の遠洋漁業の決定的壊滅をまねき、近年、さすがの水産会社も社名変更、業態転換を余儀なくされます。
だいぶ回り道をしましたが、 以上水産界の歴史と同期して業界ニーズに対応する人材を輩出してきたDNAが東京海洋大学なのだと想定しました。 
しかし水産会社の再編から大洋系と日水系の二大会社に淘汰され、さらに業態激変の収奪型産業の終焉に見舞われ、究極の改革を求められた東京海洋大学は旧態の主要カリキュラムである漁撈実習、海技免状取得用機材の練習船群の活用と運用維持が可能なのか?、新カリキュラムと練習船運用の整合性が気になります。日本の水産業地盤沈下をうけ、研究学問的な学部に昇華したように見えますが、企業ニーズに適応したものか、輩出された人材の就職先の推移、結果が暫くは注目されるのでしょう。
一方、越中島キャンパスの前身高等商船、東京商船大学も旧来は外航船舶職員等の実務技術者養成の学校でしたが、国の政治的判断の誤りから世界有数の海運国日本の支配下船舶への日本人船員の就職機会が奪われております。
さらに、気掛かりなことは、大手海運業者の運行船舶の船長幹部船員もフィリピン人など外国人船員に任せ支障なく運行されている事実です。
航海機器類の革新的開発と高度な自動化から、比較的簡易な訓練で船舶要員を確保できるならば、従来の日本型の高度な専門教育、は途上国との人件費格差に加え、オーバークオリティー船員の配乗では船舶運行コスト面からも対抗できず、船員養成学部の維持は困難でしょう。
”決定的な事実”は日本の海運会社が船舶要員確保の為、自ら東南アジアで船員養成事業を行っている矛盾があるのです!!
しかし学校維持のモデルとして国立電気通信大学があります。この学校も戦前目黒に在った官立無線電信講習所で、無線通信士、技術士養成の学校でしたが、敗戦後は見事に変身し電気通信エレクトロニクスに係る大学として存在感があります。現代の急激な技術革新に伴なう自動化、簡素化の流れは技術指向型の実務職業は単なるオペレーターに置き換えられる傾向は続くと思われます。……
…重要課題として我が国の海洋生物資源の利用と船舶職員問題は創造的将来像の指針を示す役割が国にあると思います。
東京海洋大学の輝かしい積年の蓄積が注目され日を願うばかりです。
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