[寺社] 参詣 (1)−3 葛飾柴又帝釈天は東京のイーストエンド

江戸東京の東の果てに江戸川が流れております。……
師走の半ば、空っ風が吹き抜ける季節に成りますと映画”男はつらいよ”がふと心を過ぎります。妹”さくら”の心配をよそにお兄ちゃんは何処の街を流離っているのやら。!

男はつらいよ”シリーズ第5話望郷篇で川舟での昼寝が発端、江戸川川流れとなり下流の浦安に辿り着いた寅さんと豆腐屋の娘との一悶着、例の早とちりが原因で、再び旅の空に…『色は白いが豆腐屋の娘、四角四面で水臭い』と相成りました。今回は江戸川と切っても切れない街、柴又です。
先ずは京成電鉄金町線柴又駅下車となりますが、映画フアンお馴染みのシーンは失意の寅さん旅立ちを、さくらが見送るプラットホームですが、駅のお客さんは”じいさん、ばあさん”が結構多く賑わっております、でも私は取材者ですから皆さんとは別の立場ですが? 同じにしか見えない、!ごもっともです。!!
私の感覚では、勿論銀座新宿とは異境の地、巣鴨の地蔵通りを更にアットホームにしたような心地の良さがありました。

駅前の小さな広場には寅さんの銅像も出来て写真を撮る人が目立ちますが、柴又を訪れる方々の目的は帝釈天の参詣か?、寅さんの故郷探訪なのか? 余計な事を考えるのですが、立派な銅像が映画の影響を示唆しているのかも知れません。
ところで、今でこそ電車が当たり前と乗ってまいりましたが、その昔明治32年(1899)〜大正2年の頃は人車鉄道で帝釈天参りをしていたのです。
金町駅からトロッコに定員6名程度の客室を載せ人(車丁)が押して動力とする帝釈人車軌道です。 そう云うお前は見たことは無いだろうと言われそうですが、…充分想像だけはついて居ります!。
なぜか? 子供時代の昭和二十年敗戦後しばらく迄は土木工事現場ではトロッコが活躍して土地の造成では土砂の移動手段だったのです。
枕木とレールのアッセンブリーを幾つも繋ぎ合わせた即席の鉄道にトロッコを”土方さん”が押したり乗ったり、半纏(てん)を翻し疾走するさまは魅力的な光景でした。楽あれば苦ありの土木用機材です。
ま、私は未だに大志を抱き、トロッコを操る事と風呂屋の番台に座るのを夢にしております!。 
ここ帝釈天の魅力の一つに門前町参道の佇まいと昔風の建物が残っている情緒があるのでしょう。 例の草団子屋やら、漬物、川魚料理の老舗がまた良い雰囲気です。
私はウイークデーに参詣しましたが、いまや東都屈指の観光スポットと云える人波でした。
見上げる山門から境内には風格のある建物が見事な寺観を整え信心の大きさを窺い知ることになりますが、伽藍は比較的新しく明治21年(1888)頃から順次再建整備された日蓮さん縁の寺として江戸寛永期(1629)に下総の巨刹中山法華経寺の第十九世日忠上人が開基されたそうです。 日蓮さん縁の寺とは?
……ここの御本尊さまは、日蓮聖人自ら帝釈天のお姿を木板に彫り上げた尊い板(いた)本尊だそうですが、江戸時代に一時紛失しました、ところが安永8年(1779)第十代将軍徳川家治の時代に本堂屋根裏から見付かり御本尊再来と囃され人気を呼んだそうです。
以来、その本尊再来吉日が庚申(こうしん)の日とあって、江戸庶民が夜になると寝ずに提灯をかざしての柴又帝釈天詣りが大流行したそうですが、なぜ寝ないのでしょうか?。
庚申(こうしん)の日とは何か?
……伝えられる一説では人それぞれの体内には三尸(さんし)の虫が住むと云われ、庚申の夜に眠ると体内の虫が這い出して天帝にその人の悪しき行いを告げ口されて寿命が削り取られます。
そこで一年に6回程度ある干支(えと)の庚申(かのえさる)の日には夜中眠らずに過ごす”庚申待ち”の習慣(信仰?)が在ったのですが、未だに三尸(さんし)の虫を見たと云う人は居ないようですから、一面は信心にかまけた大っぴらな遊興、酒宴などとも云われ、江戸期庶民のしたたかな智恵なのかも知れません。 
……いや、三尸(さんし)の虫ならTVでよくみてる。!…?…もしもし、ちょっと、ああた、そういう事をおっしゃってはいけません。 あの方は寄席の立派な師匠なのですから!!…
平安時代以前に中国から渡来し、貴族などで流行り、江戸時代には庶民一般にも爆発的に広がりました。
現在でも路傍や寺社境内に多数見かける庚申塔(塚)、青面金剛猿田彦の石塔が名残を留めており、この庚申の習慣を仏教神道などが取り込み青面金剛猿田彦に混淆させたものです。
しかし、大正時代に入ると急激に衰え今も信仰が在るのか、よく分りません。
境内拝観をすませますと、そこは人気観光地、寅さん記念館、大正文化財の山本邸と楽しんで、映画”男はつらいよ”の毎度お馴染みの江戸川土手の眺望がお待ちしております。
土手下には川甚という老舗の料理屋さんがあり、その昔尾崎士郎の小説にも出てまいりますが、……おいおい、いまどき人生劇場なのかい!と云われそうなのでパス、その他明治大正昭和と多彩な文士の作品に登場してくるようですが、構成上の一シーンやワンストプ的係わりで、当時は趣のある郊外の証左か、しかし破戒とか田舎教師のロケーションのように根幹的な舞台とは違う点でしょう。
また、現代のお店や地域のイメージは今は昔と云う事でしょうか。
以下、夏目漱石の小説”彼岸過迄”から川甚と帝釈天
夏目漱石全集6 夏目漱石  ちくま文庫
……この日彼らは両国から汽車に乗って鴻の台の下まで行って降りた。それから美くしい広い河に沿って土堤の上をのそのそ歩いた。敬太郎は久しぶりに晴々した好い気分になって、水だの岡だの帆かけ船だのを見廻した。
須永も景色だけは賞めたが、まだこんな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴れ出した敬太郎を恨んだ。早く歩けば暖たかくなると出張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆れたような顔をして跟いて来た。
二人は柴又の帝釈天の傍まで来て、川甚という家へ這入って飯を食った。そこで誂らえた鰻の蒲焼が甘たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした。先刻から二人の気分が熟しないので、しんみりした話をする余地が出て来ないのを苦しがっていた敬太郎は、この時須永に「江戸っ子は贅沢なものだね。細君を貰うときにもそう贅沢を云うかね」と聞いた。……
帝釈天境内は、
……二人は勘定を済まして外へ出た。須永は先へ立つ敬太郎の得意に振り動かす洋杖(ステッキ)の影を見てまた苦笑した。
 柴又の帝釈天の境内に来た時、彼らは平凡な堂宇を、義理に拝ませられたような顔をしてすぐ門を出た。そうして二人共汽車を利用してすぐ東京へ帰ろうという気を起した。……
当時の葛飾柴又を江戸っ子”坊ちゃん”の感覚での表現なのかも。!    
葛飾柴又と江戸川とは一体の景観ですが、その昔江戸川は、世界第一の人口都市、お江戸を支える物流大幹線でもあり、現代的には東名高速道路以上の重要度と云えると思います。 
また、幕府により整備された人工河川で、その経緯は複雑多岐に渉りますが、先ず、基本は利根川がお江戸に流れ込んでいた時代の渡良瀬川の流路跡なのです。次に銚子東遷以前の利根川が流れ込み、利根川東遷以後に利根川関宿から野田までの人工河川を掘削し旧渡良瀬川下流域に接続して、いわゆる江戸川の根幹が成立ちました。 時に寛永18年(1641)三代将軍徳川家光の時代です。 
但し銚子への利根川東遷の完成は正確には承応3年(1654)となりますので、それ以後の江戸川流頭は千葉県関宿での利根川分流となり、東京湾に流れ込みます。  複雑な経緯の為か、江戸時代には江戸川と云う河川名も確立されず、依然として利根川と呼ばれていた時期もあり、『小林一茶』が流山の秋元双樹宅に滞在した時の俳句、《刀禰川は 寝ても見ゆるぞ 夏小立》なども一例です。
……先へつづく

《参詣》
(3) 浅草観音境内とラビランスの探訪
(2) 成田山参詣:人の行く裏に道あり花の山
(1) 葛飾柴又帝釈天は東京のイーストエンド