[天皇公家][不条理] 公家行状記 (1) ー2 揺すりと強請(ゆすり)は同じ意味? 

今回は視点をがらりと変えてお江戸の時代真っ盛りの面白いお話になります。
突然ですが、例幣使をご存知でしょうか? なにやら偉そうで、堅苦しい感じが致しますが、話題性には乏しいかもしれません。 栃木県栃木市は明治の一時期県庁所在地であり、現在は観光都市、蔵の街として江戸時代の商業中心地の遺構など建築物が残されたユニークな街です。
この地に江戸の面影を残す道筋があります、旧例幣使街道で観光の人気ポイントです。代官屋敷、名産の麻問屋、味噌蔵などの景観が魅力的です。では、例幣使とな何ぞや?本題の強請(ゆすり)の話の面白さを楽しむには必要な事柄かと思います。

関が原合戦、大阪の陣と勝利して江戸幕府は諸侯に誓詞を提出させた徳川家康は、万全な体制で二代徳川秀忠、三代家光と揺るぎない権勢を誇示する一方、朝廷は疲弊し一万石程度の大名並みの財力に落ち、禁中並公家法度の施行で天皇家は幕府法制下に存続した時代の話です。
元和2年(1616)家康公が死去し静岡久能山に葬られ翌年家康の遺言に従い二代秀忠により東照大権現として日光に改葬されます。
更に3代将軍家光は寛永13年(1636)に社殿を大改修(現在の日光東照宮)します、朝廷は将軍家光の意向に沿い正保2年(1645)には神社の格式の最上位「宮」号を授与し朝廷の祖神「伊勢神宮」と同格な東照宮が成立します。 
さらに毎年の例祭には天皇の奉幣が行われる事になり、翌年には京都から日光東照宮に奉幣の行列(例幣使)が毎年通って行きました。 この例幣使は公家によって構成され奉幣される御幣は金紙で造られ物です。(御幣とは神社で見かける白い紙を細く切り、または折って造られ串に挟んだ祭具)
この公家の一行は京都から中山道を通り高崎の南、倉賀野から今市へ抜ける日光への近道(幕府により整備された)から東照宮に入った。この近道を例幣使街道と呼ばれ、今回のお話は舞台と成った沿道各宿場の古文書、言伝えなどの集約です。

この例幣使には高位の公家も参加しており、歌人藤原定家の子孫「冷泉家」などは参加回数では最多になります。例幣使は、なんと幕末慶応3年まで220年欠かさず行われますが、色々理由があり、また街道筋の住民には毛嫌いされる行状がありました。
なぜか? 朝廷の疲弊にともない公家は虚名の官位を持つだけの存在で、貧困に身をやつしておりました。 
例幣使に参加すると幕府から手当が出たり、道中、宿場宿場で作為を謀り金銭徴収を目論みますが、一回の参加で過分な金額を取得し生活の糧になったそうです。
島崎藤村の小説《夜明け前》には中山道馬籠宿住民から見た例幣使を端的に表した部分かあります
………吉左衛門の孫たちも大きくなった。お粂は八歳、宗太は六歳、三番目の正巳は三歳にもなる。
どうして例幣使のことがこんなに幼いものの口にまで上がるのかと言うに、この街道筋ではおよそやかましいものの通り名のようになっていたからで。
道中で人足をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から、毎年きまって下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓らが二百十日の大嵐にもたとえて恐怖していたのも、またその勅使代理の一行であった。
公卿、大僧正をはじめ、約五百人から成るそれらの一行が金の御幣を奉じてねり込んできて最近にこの馬籠の宿でも二十両からの祝儀金をねだって通り過ぎたのは、ちょうど半蔵がお玉の方へ行っている留守の時だった。………

次回は例幣使一行が街道農民、宿場商家、役人から金を取得する手練手管になりますが、ユーモラスな反面、当時の民衆には深刻な事と思います。……次へ続く

《公家行状記》
(2) 揺すりと強請
(1) 揺すりと強請(ゆすり)は同じ意味?