[天皇公家][不条理]  公家行状記 (2)−2 揺すりと強請 

”揺すりと強請(ゆすり)”の話はお公家さんに、だんだんと絞られてまいりました。 天皇に仕える公家とは、如何なる素性の人なのでしょうか? 何方様もそれぞれのイメージが在る事かと思います。
では、早速ですが…江戸時代の初期、既に疲弊した朝廷の風紀は乱れに乱れ、天皇後宮女官と公家の密通事件が多発する有様で、象徴的事件として慶長12年(1607)歴史上も有名な《猪熊事件》が発覚します。 その概要を、かい摘んでみましょう。
主犯格の公家、左近衛少将、猪熊教利は立派な官位を持つた美男子ですが、多くの公家仲間を誘い天皇後宮女官達と密通を繰り返したとされる事件です。
激怒した後陽成天皇は猪熊を京都から追放しますが、密かに舞い戻り、巷間ささやかれた公家仲間、左近衛少将花山院忠長が、何んと後陽成天皇の寵愛する後宮女官「広橋局」と密通して居る話を聞き及び、されば吾らもと公家仲間と示し合せ、再び後宮女官との乱交をエスカレートします。
悪事千里を走る!! ここに至り、天皇の耳に達します。気配を察知した猪熊は逐電し行方を晦ましました。
遂に後陽成天皇は関係者の逮捕、死罪を幕府に要請いたしましたが、駿府の大御所様徳川家康に報告が上がると余りの多人数が係わる事件の全貌から、全員死罪を求めた天皇の要望は入れられず、幕府の決定は、死罪2名、遠島島流し10名、罷免2名で決着させ、朝廷の混乱拡大を防いでおります。 猪熊教利も逮捕され死罪に、遠島島流は硫黄島、新島、蝦夷松前隠岐の島です。
この事件は「禁中並公家法度」の立法を幕府に急がせた一因であり、遂には天皇、公家の職掌行動など幕府の法治下に置かれる事に成りました。
猪熊事件から38年後の正保2年から始った例幣使での公家の素行は、色欲から金銭欲に転化し、街道宿場宿場で下劣な社会悪を実践して見せるのです。
それでは、例幣使の素行を追跡いたしましょう。
……歌舞伎の舞台ならいざ知らず、現代では”タカリ”、”ユスリ(強請)”は社会の御法度ですが、この由緒ある言葉!…ユスリ(強請)の語源が例幣使の遺産であったとは私も目から鱗でした。ご存知でしょうか?
例幣使のお公家さんは、京からの長旅で埃まみれの、ぞろっとした着っぱなしの衣装に長靴のような物を被り長旅にお疲れのイメージですが、助郷農民の担ぐ駕籠に乗ったお公家さんが突如、自ら駕籠を執拗にユスリ始め、時には自ら駕籠から転げ落ちて見せます。大騒ぎの揚句、農民駕籠かきを脅しつけ、「報告せい」が口癖です。 人足から宿場役人に報告させて揉み消し金を包ませる常套手段なのでした。 この200年余の慣習はたちまち”ユスリ→強請”と名誉ある日本語となりました。 当時は深刻な迷惑行為なのでしょうが、真剣に駕籠を揺すっているお公家さんの姿を想像して久しぶりにユーモラスな考えに浸りました。!!
次は、一財産出来たと云われる例幣使の金儲け手段。
1) 御供米…出発前、菊の御紋章付き袋に少量の米をいれ各地で病気の特効薬として販売する。(用意数量8万袋程度)
2) 長持ち潜り…天皇の奉納御幣を入れた長持ちの下を潜らせ厄除けと称して奉納金を集める。
3) 宿場毎の御祝儀集め…難題を掛けられない為に人数分の御祝儀を各宿場から渡す。
4) 古い金弊を刻んで配る…取り替えた前年の御幣を裁断して諸藩江戸藩邸に持ち込み、家康公御神体として配り奉納金を集める。
5) 長持ち等の大量運搬…荷物運びの馬、人足の数を過大に申告して上方商人の下り(江戸行き)荷物を内緒で運搬収益を得る。
6) 幕府から過分の例幣使手当てが公家に支給される。
《例弊使日程コース》
毎年4月1日 京都出発中山道経由で宇都宮先の倉賀野(例幣使街道入り口)より玉村−五料−芝−木崎−大田−八木−梁田−天明−富田−栃木−合戦場−渝木−今市(例幣使街道出口)−4月15日に日光東照宮到着です。
帰路は江戸に立ち寄り東海道経由で京都に帰っております。……前に戻る

《公家行状記》
(2) 揺すりと強請
(1) 揺すりと強請(ゆすり)は同じ意味?