日産創業者 鮎川義介 ゴーン事件の伏線(3)

さて、今回はゴーン事件に特化して、その伏線の解明です。……事件の発端後、ゴーン氏は長期拘留にも無罪を主張、遂に仮釈放され今後の具体的行動が注目されますが、最近の西川社長の発言はぶれ始め、………「刑事事件になるかどうかに関係なく、重大な不正」云々とトーンダウンしておりますが、………ゴーン会長の犯罪が仮に存在するならば、長期に亘る側近の西川社長こそ違法行為の協力者か?、黙視、隠蔽した?、疑惑から当然逮捕取調べ該当人物なのですが、野放しとは、何故か?………特捜のスタンスを推理すると……ゴーン事件とは当初から権力の介入か、司法の忖度行為の具現ではないのでしょうか……。
この事件の核心はルノーの株主であるフランス政府による日産自動車合併意向です。 安倍政権とバックアップする国粋主義グループの危機感を煽った根拠の推測、即ち日産創業者として有名な鮎川義介を解明する事にあります。 右翼国粋主義者の目には民族企業日産自動車と云う思い込みがあり、フランス企業化への抵抗感の表明が、ゴーン事件と考えられるのです。

それでは鮎川義介をクローズアップし解明してみましょう。………鮎川義介の父は長州藩士、山口県出身、明治13年1880年)生まれ、明治の元勲井上 馨と縁戚、東京帝大卒業後、製造業を起業し成功し日立金属の前身 戸畑鋳物株式会社を母体として製造業を集約して1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称し傘下に、日立製作所日産自動車日本鉱業、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成します。
では、日産自動車の沿革とは1910年代に東京麻布の「快進社自働車工場と大阪府の「実用自動車製造が、それぞれ設立され更に両者合併し1926年に大阪府ダット自動車製造が設立されました。 将来を見越し、鮎川義介はこの会社を昭和6年(1931年)に買収し1933年には自動車工業株式会社を横浜市神奈川区に設立、昭和9年(1934年)に日産自動車株式会社と社名変更したのが現在の日産の起源になります。
ここまでは工業黎明期の成功者の鮎川義介像ですが、日本の大陸侵攻から太平洋戦争へと国粋思想の発露としての軍国主義の同調者としての顔に変化し、満州浸出以後は具体的な行動が記される事になります。………昭和12年(1937年)関東軍の要望に与して日本産業満州国に移転し、満州重工業の総裁に就任、更に満州国顧問、同時に政治家として貴族院の勅撰議員、内閣顧問としてデビューし、当時の満州での財界実力者としての不動の地位は東条英機関東軍参謀)、岸信介総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)鮎川義介満州重工業)として中国大陸侵攻の強固な足場造りに奔走しておりました。…… 
昭和17年(1942年)日米開戦後の内地に帰還し、政治家として盟友東条首相内閣の顧問として戦争遂行に尽力しますが、昭和20年(1945年)8月無条件降伏で、早速A級戦犯容疑で米軍が逮捕、東条英機岸信介、松岡洋介らと巣鴨拘置所に収監されます。………その後釈放され、新生日本国の参議院議員や経済界の要職を歴任し昭和42年(1967年)86歳で死去。………
鮎川義介の遠戚」……岸信介----鮎川義介の従兄弟の娘が岸の長男信和に嫁ぐ、
           安倍 晋三(総理大臣)----母親洋子は岸信介の娘、その他鮎川義介との由縁として父祖の地と選挙区が長州山口県、人生の指針としての思想の一致など、更に……(追、註)……進行中の事案に安倍総理の腹心、前経団連会長榊原氏(東レ元会長)を日産自動車取締役会議長へ登用が画策されております。

以上が日産自動車とフランスルノー社との合併阻止の手段としてのゴーン会長事件の不透明、不可解な特捜部の背後にある画策を想定しました。           ……資料参照---wikipedia 鮎川義介
      
日産創業者 鮎川義介 ゴーン事件の伏線(3) - 旧聞アトランダム
日産ゴーン事件と韓国徴用工裁判の共通項とは(2) - 旧聞アトランダム
日産の先祖帰りか! ゴーン事件は塩路委員長事件と酷似(1) - 旧聞アトランダム