[地域][将軍家]  幻の将軍徳川昭武と松戸市 

私の感覚では松戸の町に”過ぎたる物が一つある”と云えるのが、千葉県松戸市戸定邸と云う国指定重要文化財があります。 この建物は15代将軍徳川慶喜の弟、徳川昭武明治維新後の明治17年(1884)に建て生母秋庭と住んでいた屋敷で、16代将軍に擬せられた貴人の128年前の住居です
     
豪壮な武家の御殿とはいささか異なり、明治頃からの普遍的日本家屋の原形を留めており、規模の差を別にすれば昭和時代東京の郊外の住宅に引き継がれ、小さな洋館を付け加えた”トトロの家”風の住居が世田谷などの新開地には良く見かけた様式です。
江戸川を望む広大な庭園と幕末徳川将軍家に係わる資料、遺品を展示する松戸市戸定歴史館として公開されております。 では主人公…

     

徳川昭武》…who's who…
松平余八磨昭徳(徳川昭武)は嘉永六年(1853)黒船が浦賀来航の年、九代水戸藩主斉昭の十八男として駒込別邸(現、東京大學農学部)で出生します。生母は万里小路睦子(斉昭(烈公)側室)で長男徳川慶喜の生母は有栖川宮王女吉子(正室)ですから、慶喜とは腹違い16歳下の弟になります。
徳川慶喜十四代家茂の将軍後見役一ツ橋公として禁裡御守衛総督の時、幼少僅か十歳で水戸藩京都禁裡守衛の将として出陣、「禁門の変」や「水戸天狗党捕縛」の血生臭い事変を体験しました。 徳川昭武の人生最大のイベントはパリ万博特使役将軍名代ですが、その補佐役を務めた「渋沢栄一」が、丁度この頃、元治元年(1864)は上州血洗島から上京し一ツ橋家慶喜の側近平岡円四郎に面会、仕官した時期に当り、明治まで僅か四年前の事です。
攘夷論が吹荒れる幕末、既に大老井伊直弼の英断により開国していた幕府はフランスと特に親密な関係にあり、ナポレオン三世の送り込んだ駐日公使レオン、ロッシュの援助協力で近代化の基盤、横須賀製鉄所の建設、近代式軍隊や幹部養成学校創設を銅、生糸の輸出。 兵器機材の輸入を担保にフランスの会社より借款を得、慶応二年(1866)に立ち上げます。
…この年は十四代将軍家茂が亡くなり一ツ橋公徳川慶喜が十五代将軍に就任し、当時世嗣のない慶喜は弟昭武を水戸家から御三郷のうち、清水家の養世嗣に送り込み次期将軍の有力候補者に見込んで居りました。…徳川昭武が幻の十六代将軍と言われた所以です。
幕府は、はるばるフランス皇帝ナポレオン三世から1867年開催パリ万国博覧会参加要請に出品を決めており、慶喜は急遽将軍名代として弱冠十四歳の昭武を決定、使節団員の一員として幕臣渋沢栄一も加えます。先進西洋文明の吸収に熱心であった将軍慶喜にとっては幕府諸制度の近代化を勘案、次代の昭武に留学をも兼ねさせていたのでしょう。 将軍名代昭武以下二十一名の使節団は慶応三年(1867)一月横浜を出港しますが!……
この時、もはや幕府倒壊までたった一年しか在りませんでした。 幕末動乱に何が起こったのでしょうか?  致命傷、最後の一撃ともいえる事件が勃発したのです。!!
慶応二年(1866)十二月二十五日、第百二十一代孝明天皇が突如36歳の若さで急逝します。 …孝明天皇は攘夷思想ではありましたが佐幕による尊王実現を目指す叡慮であり、当時幕府の方針”公武合体”と同じ立場で将軍慶喜にとって帝は理想の存在でありました。 孝明帝により長州勢や過激公家も京都から追放されて小康状態かと思われた矢先、キーマン岩倉具視佐幕派から急進尊皇派に既に転向しており、薩摩藩士大久保利らと謀議を繰り返し、異変が起こります。 俗に云う孝明天皇毒殺疑惑です。
真実は解明されぬまま天皇が急逝すると、孝明帝の意志に反して、岩倉具視は追放公家の”七卿落ち”と”列参二十二卿”の全員が復権させ、公家中山忠能家で養育されておりました幼少の睦仁親王明治天皇)を手中に一挙に急進尊攘公家は息を吹き返しました。更に岩倉具視は秘書玉松操に倒幕の密勅を起草させ長州、薩摩藩宛に渡します。…これは有名な偽勅でしたが。……
一方、徳川昭武パリ万博使節団は各地を寄港し無事マルセーユに慶応三年(1867)二月二十九日上陸、横浜出港後四十八日間の航海でした。
日本人としては太古以来全く異質の文化を目の当たりにして随員の医師高松凌雲は《公園、博物館及び市内各所を巡覧し、其荘厳美麗なるには実に一驚を喫せり。 友人と戯れに云、極楽浄土は西の仏の国にありと聞けるが、是即仏国なりとて一笑を発したり》と割合余裕があるようです、早速マルセーユの写真館で撮影した写真があります。 
     
フランス、ヨーロッパでは徳川将軍を日本の覇権者皇帝、大君と理解しておりましたので昭武は皇帝の実弟として遇され、ナポレオン三世の謁見を初めツーロンなど国内の先端施設など産業革命後のフランスの実情を見学しており、万博終了後は更にイギリスでビクトリア女王と謁見し、スイス、オランダ、ベルギー、イタリヤなどヨーロッパ各国を訪問、歓迎されて最新設備を見学しております。 昭武は継続して留学の予定でありましたが朝敵征伐の錦旗に驚愕した慶喜は助命嘆願の謹慎蟄居して旧幕府の組織は崩壊し新時代を迎えました。
留学予定の昭武一行に急遽帰国の指示が明治新政府から発せられ、明治元年(1868)十一月三日横浜に上陸します。 この時総勢四名、従者は渋沢以下三名になっておりました。
この使節団は幕末大動乱に隠れ、小さな出来事ではありましたが、主人公昭武にとっては幼い貴人のエキサイテイングな体験だったのでしょう。…
随行幕臣などは世襲の武士は役人感覚で先見性、進取の気概には乏しかったと思います。……にも拘らず使節団の耀かしい成果は貴人でもなく、世襲幕臣でもない「渋沢栄一」の存在でした。彼が学び観察した先進国の仕組みが明治以後日本近代化の素早い成功の鍵でもあったのです。
 ……次にリンク…                           

松戸市戸定歴史館→ http://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/