[事件事故] 足尾銅山鉱毒事件 (1)−3 その経緯

前回に引続き、今回は足尾銅山操業の発端から追跡してみます。
明治の御一新で西洋文明を立国、国家経営の道具として、がむしゃらに取り入れた時代でした。軍国主義は例外として一定の近代化の成功は確かでしょう。 しかし私達戦中派にとっては公害という語句すら存在しておりませんし、ましてや 足尾鉱毒事件どころか田中正造の存在すら教えられておりませんでした。
その足尾鉱毒事件と田中正造が社会にクローズアップしたのは昭和31年(1956)熊本県水俣や昭和40年(1965)の新潟県阿賀野川水銀中毒事件の発生が端緒でしたから、私達もお蔭様で戦後社会から得た知識です。……
まず足尾銅山の経緯から始めますが、明治黎明期のキーマン達の行動が投影され、大変面白い側面があります。  係わった主な人物に古河市兵衛渋沢栄一陸奥宗光の交友は興味あるものです。


 
古河市兵衛さんの出自から、父は岡崎の庄屋木村家ですが没落し、幼少から困窮の生活で丁稚奉公の後、叔父の仕事を手伝います。貸金業の叔父の知人京都”小野組”の使用人古河太郎左衛門の養子となり、養父の病没で小野組で働く事になります。…頭角を現した市兵衛は鉱山経営も手掛けて小野組の大番頭に上り詰めるのです。
この京都の小野組とは三井組、岩崎家(三菱)とも競う当時の大商人、政商で維新の時、賊軍征伐の官軍へ用金調達の功から明治政府の資金預託、為替方も命ぜられ租税収納や送付を扱いました。
一方の陸奥宗光紀伊藩士ですが幕末には坂本竜馬と親しく、勝海舟海援隊に加わっており、才知にすぐれ、”二本差さないでも食えるのは陸奥と俺ぐらい”と竜馬に言わせるほどの切れる男だったようです。
彼の54歳の生涯ではヨーロッパ留学、駐米国公使、農商務大臣、外務大臣では日清戦争に係わり外交成果を挙げたとされます。

では、三人の最初の接点は? 憶測の域とは思いますが、明治4年頃大蔵省に租税正として招聘された渋沢栄一に市兵衛が相談事を持ち込み懇意になりますが、渋沢栄一の上司、租税頭(局長)が陸奥宗光と云う事でこの才知溢れる三人が偶然親交を結ぶ事に為ったのでしょう。……
やがて渋沢栄一は大蔵省を退任して国立第一銀行の設立を計り、小野組、三井組、島田組の出資をもとめ大株主として銀行は発足します。
小野組もまた業務の拡大に国立第一銀行から相当額の融資を利用しますが、政商同士の争いに敗れたのか、経営不振か、突然政府預託金の全額返済を国から迫られ、結果倒産に追い込まれました。
小野組倒産は国立第一銀行を直撃、貸出金総額300万円のうち小野組の事業資金として140万円の融資残高があり、銀行は連鎖倒産の危機を迎えます。……
銀行頭取渋沢栄一のピンチを救ったのは古河市兵衛の誠意でした。彼は小野組の全資産と自身の資産総てを担保として銀行に差し出し、結果、銀行損失は2万円に留まりました。 が、市兵衛は丸裸同然で小野組を去ります。…”禍福はあざなえる縄の如し”と喩がありますが、渋沢栄一の市兵衛にたいする感謝は、やがて強い信頼、親密の関係となり古河市兵衛の成功へのステップに転換されるのです。……
注)国立銀行とは…日本銀行成立以前の兌換紙幣発行銀行のこと、アメリカのナショナルバンクに倣ったもので「ナショナルバンク」を”国立銀行”と訳したものです。 明治15年(1882)に日本銀行が誕生して日銀券発行にともない国立銀行条例は消滅、各行は普通銀行になりました。現在はナンバー銀行として、第三、第四、第十六、第十八、第七十七、第八十二、第百五、第百十四、などが営業しております。
…無一文の市兵衛に渋沢栄一は早速手を差し伸べ市兵衛の手掛ける新潟草倉銅山買収に融資の道を開き明治八年に成功させ、古河市兵衛が鉱山業として自主独立の第一歩を歩む切っ掛けを与えます。更には明治10年(1877)に廃鉱状態の元幕府直轄足尾銅山を国立第一銀行の更なる支援を得て買収し、努力の結果銅の巨大鉱脈を次々に発見して、巨利を手中に収め古河財閥として発展の礎を築く事が出来ました。
また、駐米国公使の陸奥宗光から銅金属の近代工業での将来予測や電気精錬など先進鉱山経営の情報を逐一提供を受けて経営に活用していたのです。 この間子供の無かった市兵衛は陸奥宗光の次男潤吉を養子に迎える縁戚関係となり、後に潤吉は養嗣子として古河二代目を継ぎます。
核心鉱害に至る過程は……つづく

足尾銅山鉱毒事件》
(3) 政治家田中正造と鉱毒事件
(2) 幕府公儀御用山から明治まで
(1) その経緯