[人物][歴史][地域]  渋沢栄一(5)−5 王子飛鳥山

飛鳥山と云えば「花見の仇討ち」とくれば結構な落語好きのお方様でしょう。王子駅裏の音無渓谷にある卵焼きで名を売った料理屋を舞台に「王子の狐」の噺も、これまた落語の傑作かと思います。先ずは落語でリラックス、……
      
関八州稲荷の総社王子稲荷神社と音無川渓谷
東京落語地図朝日文庫 佐藤光房著から
……ある男、王子に遊びに行って、田んぼの稲むらの蔭で狐が若い女に化ける現場を見てしまう。化かされる前にと、男の方から「お玉ちゃん」と声をかける。「あら、お兄さん、お久しぶり」という狐を誘って、王子の料亭扇屋の二階に上がる。
狐はてんぷら、男は刺身で飲んでいるうちに、狐は酔って寝てしまう。男は「近くの伯父のところに顔を出したいので、土産に卵焼きの折を三人前、勘定は二階の婦人が心得ているから」と、あとを狐に押しつけて行ってしまう。
しばらくして女中に起こされた狐、「お勘定を」といわれた途端にびっくりして通力を失い、正体をあらわす。店のもの総出で、棒切れを持って狐を追い回す。進退きわまった狐は、最後っ屁を放って窓から逃げる。そこへ主人が帰ってきて「うちが繁盛しているのは王子のお稲荷様のおかげだぞ。そのお使い姫になんて事をする」と店のものをしかり、王子稲荷へわびに行く。一方、狐をだました男、伯父に「狐は執念深いから、お前の一家は取り殺されるぞ」とおどされる。
怖くなった男は翌日、手土産を持って謝りに行く。狐の穴を見つけ、子狐にわけを話して土産を渡す。子狐が開けてみて、「やあ、ぼたもちだ、食べてもいいかい」というと、けがをしてうなっていた母狐が「およし、馬のふんかもしれない」。
……
…噺の概略でした。駅裏から北5、600mには王子稲荷や名主の滝など江戸以来の名所があり、また音無し渓谷は東京旧市街では唯一昔日の景観を残しております。
都電王子駅前の東武ストアーと国立印刷局王子工場一帯が旧王子製紙発祥の地になります。 栄一がまだ大蔵省在職の明治五年に抄紙会社設立を三井組三野村利助、小野組の古川市兵衛と渋沢家の渋沢才三郎(栄一の代理)らが会社設立の願書を提出翌明治六年に許可され抄紙会社が発足し社長に就任しました。国立第一銀行開業と同年になります。
近代国家の必需品として洋紙製造の発案も栄一が徳川昭武の万博随行でヨーロッパ見聞からもたらされたものす。 イギリスではタイムズの輪転機など目撃しており、製紙、印刷などは国家文書、紙幣を始めとして国民文化の源泉と看破していたようです。
都電停留所附近には”洋紙祥の地”の記念碑があり至近の場所に国立(大蔵省)印刷局は旧王子製紙会社から譲渡されたものです。 抄紙会社は設立二十年後の明治二十六年に現社名王子製紙株式会社と改名、大規模な設備投資資金を三井銀行から導入し渋沢栄一はその三年後に経営陣から引退しております。 
…明治の初期王子に洋紙工場が創られる理由は石神井川から工業用水の確保、平坦な用地、製品原料の運搬を隅田川舟運の利便、など最も優れた場所であったとされます。 更に重要な条件が在ります。当時の製紙の原料は”ボロ"木綿で古着などを収集するにも適していたのです。
その後原料はボロから木材パルプに代わり原料の確保、海運の利便、広大な用地と進化を求めて明治41年には北海道苫小牧に主力工場の操業が始まり王子の時代は終わったのでした。 ここに来て私はなにやら場末的な雰囲気の街、王子と日本の代表企業の社名とのイメージのギャップが面白く感じました。 王子飛鳥山界隈はどうやら渋沢栄一さん抜きでは語れない土地の様です。

それでは飛鳥山にまいります。地形的には武蔵野台地の東端が落ち込む崖の部分と音無(石神井川)渓谷が形成された景観を飛鳥山と見立てたようです。 江戸以来この一帯も整備して桜など樹木に蔽われた現在の飛鳥山公園です。 園内を駒込方面に歩くと三つの瀟洒な博物館があり、紙の博物館、北区飛鳥山博物館、渋沢資料館、と続きます。
紙の博物館は王子製紙工場の資料をもとに発祥し、図書室には創業時の物も在るそうです。 この付近は旧渋沢栄一邸「曖依村荘」(あいいそんそう)跡で一番奥が渋沢資料館です旧邸内の建物は戦災により多くは焼失しましたが晩香廬(ばんこうろ)と青淵文庫(せいえんぶんこ)が残り東京都の歴史的建造物です。 大正初期の洋風建築で調度品、内外装とも補修され当時の重厚な雰囲気を保ち質の高さを感じさせ共に公開、見学が出来ます。
渋沢栄一が経営に関わった会社は約500社といわれ現代の大企業の名も多数存在します。 私には手に負えませんので渋沢栄一記念財団の資料からを御覧下さい。
渋沢栄一が関わった会社名一覧》 http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/list.html
そこで渋沢栄一のユニークな部分、一橋大学、福祉事業、田園調布の住宅街に特化してみます。
      
大正時代の田園調布住宅(小金井江戸東京建物園)と東急田園調布駅保存駅舎

明治六年頃に出来た東京会議所は現在の東京商工会議所に進化してゆく組織ですが、栄一は委員を経て明治九年には会頭に就任しており副会頭には益田孝、福地源一郎がいます。 これが起源で商業高等教育にかかわり森有礼の創立”商法講習所”から現在の一橋大学の前身”高等商業学校””東京商科大学”成立運営に努力しました。
明治期の商業実業に対する大学教育の考えは二分されておりました。 
副会頭益田孝
商人は威張ってはならぬのに、学問を尊重し高尚な学理を授けると、いたずらに気位が高くなる弊がある。 商業教育を普及させる事は結構であるが、現在以上に高尚な学問をさせることはますますこの傾向を助長するに違いない。商人に虚名などはなくともいいから、ことさらに商科大学を設ける必要はないのではないか」のち三井物産創業者、社長)(雨夜譚より)
渋沢栄一
「実業家には見識が必要である。舜(古代中国の聖天子)も人なり吾も人なり、という考えがあってこそ実業界は発達してゆくのである。 踏みにじられても軽蔑されても利益を得さえすればいいという態度では、今後世界のひのき舞台に立って大いに競争していくようなことはできるものではない」 (雨夜譚より)……
福祉事業についても有名です。
…明治9年からから50年余り渋沢栄一が初代院長を務めた《養育院》があります。東京府知事幕臣大久保一翁の発案で当初は東京会議所の出資で創設されたものですが、現在は板橋の旧施設地に東京都立の老人ホーム、ナーシングホーム、老人医療センター、老人総合研究所の近代的施設に昇華し、”養育院”の名称は廃止されましたが福祉の精神は引き継がれ美濃部知事の昭和47年以来、大規模福祉医療施設として一般利用に供されております。なお、明治時代の福祉とは現代の高度な施策とは異なり身分制度の破棄など平民化に伴なう旧非人身分者など、社会生活に努力、思考など向上の手段を禁じられ、反面特権的職業の乞食、芸能、番人、刑場手伝い、清掃など安定した生業特権が奪われた棄民救済や混乱期の困窮者救済に先ず上野山内に養育院が建てられ収容したのが始りです。
近代的田園住宅地の造成
…引退後の大正7年(1918)には欧米の田園都市を構想して子息秀雄氏の手を借りた宅地造成事業の田園調布住宅街は今なお東京の超一流住宅地と云われております。 田園調布駅から放射状の並木道にゆったりとした敷地に展開する文化性の高い住居は関東大震災以前の東京ではモダンな格調の高い街であったようです。……
最後に江戸、明治の実業人を分類して見ますと渋沢栄一は第三のタイプと言えるのでしょうか? 先ず第一は御存知江戸時代の紀之国屋文左衛門、奈良屋茂平などの思惑の投機タイプ、第二は三井、岩崎、鴻池など官業民業を舞台に利益を追求し私益を積重ねる覇権形成型の財閥資本家タイプとすれば、第三は社会還元型実業人で合理的手段の利益追求と合本主義(株式制度)を理想に利潤を分配還元のタイプで私益を優先しない事と倫理を基本にする。渋沢栄一の場合は加えて社会国家に奉仕する精神だったのでしょう。
さらには天地が一変する程の社会転換時期と、優れた資質、強運の三拍子が揃った《日本社会近代化請負人》だったと云えるかも知れません。……おわり… ……前回へ戻る

渋沢栄一
(5) 王子飛鳥山
(4) 実業社会へ、大蔵官僚辞職の顛末(2017 02 20 訂正部分あり)
(3) 新政府出仕と従兄弟達の彰義隊始末
(2) テロリストから幕臣への道
(1) 幻の16代将軍徳川昭武と渋沢栄一