[事件事故][不条理] 福島原発事故(3)−3 足尾鉱毒事件との対比

前回では福島原発事故の影響が社会生活のインフラ、電力供給の不安定化と料金値上の話でした。 今回は明治、平成と100年程の隔たりがありますが、日本国の公害原点とも云われる足尾鉱毒事件から福島放射能汚染の今後の展望をしてみたいと思います。
驚くほど似ている両事故の共通点から、……共に発端は古河鉱山と東京電力の民間企業の起した公害事件ですが、いつの間にか国という公権力が前面に現れ、両事件とも「加害会社対被害住民」の実体は「被害住民対国」という図式に転化しております。
官尊民卑の時代、足尾鉱毒事件の場合は被害農民の生活権はことごとく国が阻害します。汚染地農民と鉱毒沈殿の渡良瀬遊水池計画区域の農民は不毛荒地や北海道サロマベツ原野開拓地を代替に伝来の土地を追われました。これに抗議抵抗する農民は本旨の『鉱毒被害者』から一転『違法農民』とlして官憲は容赦しませんでした。……
     

渡良瀬遊水地夕日
今回、福島放射能汚染の莫大な補償賠償は大きな社会問題としてクローズアップは必至ですが、被害住民の居住、農地耕作が国の法権力により強制立退きが実施され流浪生活を余儀なくされております。特に注意すべき動きですが、被害者の将来展望を左右する賠償、補償の負担と支払い交渉から国は退いて一私企業の責任と分断し様子見を決め込んでおりますが、…賠償額縮小を謀る眼晦ましかも知れません。
また、両事件の相違点を探ってみますと、政治家の対応介在の相違が目につきます。足尾鉱毒事件で政治家田中正造議員の如き献身的な姿が福島事故では見当たりません。 むしろ、福島県の政治家は原子力発電所建設を推進して政治力を誇示してさえいたのです。民主党最高顧問と云う渡辺恒三さんの例。……
1992年3月18日の参院予算委員会通産大臣渡辺恒三(当時自民党)の答弁……質問者自民党鹿熊議員…「チェルノブイリ事故以来、原発反対グループの言動は激しく、放置できぬ状態だ。こうした動きが国民に間違ったエネルギー観を植えつけることになりはしないか」
答弁…渡部通産相……「一般的に、自動車が事故を起こした、こういうことになれば、人に殺傷を与えたとか物を破壊したとかということになる。そういう意味では、我が国の原子力発電所はただの一度も被害を与えたことはないわけであります」、「原子力発電所の建設をされた地域の人たちは息子や孫の時代まで、おれの町に原子力発電所をつくってよかったと、国家にも貢献し、そして地域の発展にもつながるということで全力を尽くしてまいりたいと存じます」
1984年1月6日の毎日新聞記事…厚生大臣渡部恒三(当時自民党)は日本原子力産業会議主催の名刺交換会の発言。……「私の選挙区福島県は日本の原発の30%を占めているが、そこで育った私はこの通り元気いっぱい、健康そのもの。原発をつくればつくるほど国民の健康は増進し国民は長生きし、厚生行政は成功してゆくのではないかと思う」。 (以上web上の記録から)
なお、渡部恒三の元秘書で甥の現福島県知事佐藤雄平プルサーマルを前知事の反対を押切り福島原発に導入した人ですが、作今はあたかも被害者代表の様に振舞っている姿がTVに映ります。  
ちなみに流浪する放射能被害者を余所に政治家渡辺恒三は原発のお蔭で長生き、裕福な民主党最高顧問をお楽しみのようですが、……足尾鉱毒事件の田中正造は…。
……田中正造が代議士として、足尾銅山鉱毒問題を帝国議会に提出したのは、明治二十四年である。 そのときから、これは田中正造の生涯の仕事になった。
それは「純粋で無償の情熱」であり、「無私といっていい純粋」なものであった。彼は鉱毒問題のために、すべてをなげうったのである。 代議士の地位も、財産も、名誉も、家族も。 ”辛酸入佳境” これは田中正造が好んで揮毫した文字である。……
城山三郎著”辛酸”解説より。
 《田中正造の主な行動》
1841年   
栃木県小中村にて(天保12年)名主長男として出生、其の後名主を継ぐ。
1878年   区会議員。
1879年   栃木新聞編集長、国会設立を主張。
1880年   栃木県会議員。
1886年   栃木県会議長。
1890年(明治23年) 第一回衆議院議員 以後連続当選6回、一時議長候補に擬せられる。
1891年   
鉱毒問題の質疑を開始、伊藤博文大隈重信山縣有朋内閣と対峙、執拗な質問、演説を展開するも政府の姿勢変わらず。
1900年   
川俣事件発生、憲政史上に残る大演説、”亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問”に対し山縣有朋総理大臣は答弁を拒否する。
1901年   衆議院議員を辞職。(明治34年10月)
1901年   
足尾鉱毒事件について国会行幸馬車の天皇に直訴するも失敗。東京市中は騒然号外まで出る。麹町警察署では鄭重に扱い即日釈放。理由…狂人扱いにして決着。国は裁判法廷で足尾鉱毒事件の詳細開示を恐れた苦肉の策と云われる。
1902年   川俣事件公判に於ける官吏侮辱罪にて重禁固40日の服役。
1903年   
中村一帯の貯水池案の実施始まる。正造は谷中村に籍を置き住民としての廃村拒否運動、訴訟活動、貯水池化の不合理証明の調査レポート作成、資金集めなど老体をいとわず活動。  
1913年9月4日   
支援者訪問後、支援者、佐野市旧吾妻村庭田清四郎宅にて病重篤し生涯を閉じる七十三歳であった。
田中正造の枕辺に残された遺品は菅笠と合切袋(がっさいぶくろ)、中には大日本帝国憲法合本、マタイ伝、新約聖書、日記、河川調査の草稿、小石3個、鼻紙、川海苔のビン、でした。 死の前年には生地(しょうち)、小中村にあったわずかな土地と家屋はすべて村に寄付されていました。……おわり…
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福島原発事故
(3) 足尾鉱毒事件との対比
(2) 東京電力料金値上と福島原発事故
(1) 原発事故とヒューマンエラー