[河川][交通流通][歴史] 小江戸川越(1)−2 川越夜船

 《千住節、川越舟歌から》……
ハァー九十九曲りエー仇では越せぬ(アイヨノヨー)通い舟路の三十里(アイヨノヨトキテ夜下りカイ)
ハア―押せや押せ押せ エ― 二挺櫓で押せや 押せば千住が 近くなる
ハァー舟は千来る万来るなかで 私の待つ舟まだ来ない
ハァー千住橋戸は錨か綱か 上り下りの舟とめる
ハァー千住女郎衆は錨か綱か 今朝も”二はい”の船泊めた
ハァーいくら秩父の材木やでも お金やらなきゃ木はやらぬ
ハァー舟は帆まかせ舵まかせ 私はあなたに身をまかせ
ハァー舟に乗るならエー身を大切に 舟は浮きもの流れもの
ハァー泣いてくれるなエー出船のときに 泣かれりゃ出船がおそくなる  
ハァー川岸を出てからエー富士下までは 互いに見合す顔と顔
ハァー富士下離れりゃエー荒川までは 竿も櫓櫂も手につかぬ
ハァー舟は帆かけてエー南を待ちる 可愛い女房は主待ちる
ハァー押さえ押さえてエー喜びありゃァ ほかへはやらじと抱きしめる
ハァー千住でてから 牧の野までは 竿もろかいも 手につかぬ

-photo- 山川出版社 埼玉県の歴史散歩川越夜舟広告 明治時代か、但し船型は近海用五大力船、喫水の関係で河川遡行に使用しない

徳川家康公の江戸入府以来、江戸城防備の要衝でもあった川越城ですが家康が帰依し、”天海僧正は人中の仏なり”と云わしめた天海の大寺院「喜多院」が川越にあります。徳川270年に亘り終始幕府と密接な誼のあった大伽藍です。幕府が倒れ戊辰の上野彰義隊戦争で焼かれた徳川将軍廟の東叡山寛永寺の再興にも尽力し現在の寛永寺の本堂(根本中堂)は川越喜多院の本地堂(講堂)を移築したものです。
さて、本題”川越夜船”のお話ですが、三代徳川家光の時代、寛永十五年(1638年)に起きた川越大火により喜多院も堂塔伽藍と、境内の東照宮も焼失します。将軍家光は直ちに江戸城内紅葉山の御殿を解体、舟で新河岸川を利用し川越喜多院に運び寺の庫裏、客殿、書院、など主要な建物を再建復興させました。 この移築建物には大奥御殿も含まれ、二代秀忠正室お江与が三代将軍家光を出産した部屋とか、有名な春日局の部屋、”化粧の間”と云われる遺構が現在も残され公開されております。
この解体された江戸城御殿は墨田川から荒川、新河岸川を経由して舟によって川越に運び込まれたのです。……
これを切っ掛けとして”智恵伊豆”こと、当時の川越藩主松平伊豆守信綱は舟運整備を進め、水路確保の手段として新河岸川を屈曲させ流れを滞留して荷舟の喫水を確保、さらに河岸を各所に開きお江戸と川越を結ぶ物流大動脈を作り上げます。 川越舟運として機能を始めたのが大火6年後の正保元年(1644)といわれ、川越の河岸は上新河岸、下新河岸、寺尾、牛子、扇の五河岸が整備され、川の名前も現在の新河岸川と呼ばれるようになりました。
   
福岡河岸 福田屋帳場、客室




しかし現在の新河岸川は全く別の川の機能に変身、九十九曲がりといわれた流れは川幅を広げ直線化し堤防を築く近代河川に変貌しております。明治以後の鉄道など陸運主体の物流が始り、舟運確保の物流大動脈としての河川管理(低水工事)から治水目的(高水工事)の河川管理が行われた由縁です。当然古くから栄えた河岸場の遺構などは堤防や河川敷に変貌し壊滅しておりますが、唯一大規模な河岸の廻船問屋の遺構がふじみの市福岡河岸の福田屋が福岡河岸記念館として公開されて居り、私如き遺構建物好きには堪らない魅力ある建築でした。…
さて、川越夜舟とは川越五河岸発、浅草花川戸行きの早舟で夕方乗って明朝千住河岸、昼には浅草花川戸に上陸という定期の屋形船のようです。
並舟など荷船の不定期船は各地の河岸などで集荷しお江戸鉄砲州の辺りまで下り、二十日程かけて川越に帰ります。
使用された川舟の船型は「川越ひらた舟」と云われ、利根川、江戸川の高瀬舟とは僅かに仕様が異なりますが、積荷能力は大型高瀬舟の半分程度、米400俵位です。同じ川舟の高瀬船と船型の異なる理由はよく分りません。! お江戸へは米麦、農産品、木材など、江戸からは日用雑貨、金肥などでしょう。…
船の船頭は艪、竿、帆を操り大変な仕事かと思いますが、波を枕の船乗り気質が千住の遊里と深い誼があるのか? 宿場花街の騒ぎ歌など千住節は冒頭記載の川越舟歌とされ、現代でも大変に面白いものですが舟歌だけに即興で船頭が唄うらしく正調があるのか分りません。…千住河岸は隅田川に架かる千住大橋の袂、千住橋戸町に現在も橋戸稲荷神社が辛うじてありますが、この一帯が河岸の問屋、木材問屋や、荷揚げする小揚の組などで賑った場所でした。……先につづく

小江戸川越》
(2) 徳川三代《家康、秀忠、家光》と川越喜多院
(1) 川越夜船