[地域] 江戸城外堀(5)−5 溜池、虎ノ門。 釣り場、渡し舟、どうどう。

前回よりお話は続きまして、ホテルニュージャパン跡地に建つ、プルデンシャルタワービルのわずか先には山王日枝神社参道の大鳥居が在ります。江戸初期の代表的建造物として国宝の指定を受けていた日枝神社は昭和20年5月、B29の東京空襲で敢なく烏有に帰し 残念ながら戦後派の不燃建築になっており古建築文化財は見当りません。この神社の御由緒は江戸城築城の太田道灌が川越喜多院境内の日枝神社を城内に勧請したもので、徳川家康以来、将軍家に崇敬され産土神(うぶすがみ)となっておりました。 特にお江戸屈指の御祭礼として日吉山王権現社(山王日枝神社)の山王祭神田明神社の神田祭江戸城内に繰り込み将軍の御覧があり、天下祭りとも呼ばれたそうです。往時は山車60台以上があり、京都の祇園祭を遥かにしのいだと云われております。……
私の知っている赤坂山王から溜池にかけて外堀通りの昭和2,30年代は外車ディーラーが街の大半を占め東京のデトロイトなどと新聞などの記事にありました。…が、アメリ自動車産業の大工場の街と小さな外車代理店が建ち並ぶ街筋との比較には滑稽な感じもいたしました。
明治の時代、山王権現詣りには溜池を渡し舟があったそうでして、現代では想像の付かない光景です。最早手に負えませんし、歴史的な事実は当時の書き物を御紹介した方が御安心戴けるかと存じます。……
赤坂見付けから溜池への外堀は赤坂側に上水道木管が埋設されていた原っぱになっていた様で、現在の外堀通りの裏に立並ぶ料亭街などでしょう。…
     
 【1】 アメリカ大使館       【9】 特許庁
 【2】 ホテルオオクラ       【10】 霞ヶ関ビル
 【3】 共同通信会館       【11】 国立教育会館
 【4】 JTビル            【12】 文部省
 【5】 虎ノ門病院         【13】 国立印刷局
 【6】 金刀比羅宮        【14】 ジャパンエナジー
 【7】 葵坂              【15】 洗堰(どうどう)
 【8】 商船三井ビル(満鉄ビル跡)   【16】 東京倶楽部
   明治百話(上)赤坂溜池の変遷 篠田鉱造 岩波文庫
……この原っぱを越すと、ソコは坂道になっていて、金毘羅様の方へ、ダラダラと降ることになります。 あすこには後に切り下げだから、今日は、平坦であるが、明治二十四、五年頃は勿論三十年頃までは紀の国坂を低くしたようになっていて、虎ノ門公園あたりは、スッカリお濠の一部で、土手が柳をなびかして、東京倶楽部の石垣は、遥かに向こう川岸に見えた景色でした。
倶楽部の門前のところが、『どうどう』といって、溜池の水が堕ちる落口となっていました。 大豪雨のあとで、溜池が氾濫した場合は、この『どうどう』は、高くはないが、華厳の滝のような、凄まじい響きを立て、落込んでいたものです。 溜池一帯の電車道は、見渡す限り沼地で、蘆萩(ろてき)の州であって、中央(まんなか)に一条(ひとすじ、五間ぐらい)の川が流れていて、大豪雨または降雨つづきの時は、その沼一面に大水となって、湖水の如く漲ります。 その漲った大水は、袋の出口の、『どうどう』へ堕ちるより、逃げ場所がないから、豪雨後二、三日は、恐ろしい勢いで落水し、凄いじゃアないかと、見物したものです、地響して堕ちていました。……
……この『どうどう』へ夕暮方になると、鯉が登ろうとして、刎ねあがるのを、見物している人々がよく群れていました。「鯉はえらいなァ、アノ滝へ登ろうというんだ」「威勢のいい魚だ、アア登った」といって驚嘆している。……前申した平常は(ふだんは)、五間ぐらいの川が流れている。ソノ川は夏泳ぐ人もあり、また網を打つ人、四つ手を下す者、釣りをしている老人、いろいろあって、赤坂見附から虎ノ門大和坂までですから、なかなかの長距離でところどころ十間位の沼となって、葦の生い茂った場所もありますから、釣れば尺ぐらいの鮒や鯉も釣れました。
山王下のところは、一大沼地となって、溜池から渡船(わたし)で渡るようになっていて、山王のお祭礼(まつり)には賑やかのものでした。……
渡船は徳兵衛という蓮堀のホマチでしたが、縁(ふち)の浅い幅広の田船で、客を子供交じり十二、三人乗せては渡していましたが、溜池の乗場が今考えると、溜池湯の先でしたから、『竹永楽』あたりで、山王さんの方は、ちょうど梅幸の宅の辺りと思われます。 ソコに徳兵衛の家があって、船をあがると、スグ星が岡茶寮の下で、その先の石段のところをあがると、見晴らし茶屋の軒を並べているという山王山でした。……


広重 虎ノ門あふひ坂(葵坂)と洗堰(どうどう)の様子、手前裸の二人連は寒参りで金毘羅様から出てきたところ。
さて、特許庁前まで参りましたが、洗い堰の”どうどう”付近から虎ノ門の間が今回の一番複雑に変化した場所と思います。
以下、上記切絵図と広重版画あふひ坂(葵坂)を御参照ください。
外濠は金毘羅様に突き当たり鉤状になりますが、外堀通りは鉤の内側(霞ヶ関側)をえぐりカーブしながら虎ノ門に達します。 一寸戸惑いましたが実はこの付近は江戸切絵図の道筋がよく残っている場所なのです。
●一番のポイントは商船三井ビルとJTビル、虎ノ門病院に面した道が昔の葵坂なのです、また虎ノ門病院の交差点(交差する金毘羅様の道)で外堀は突き当たり鉤状になっていたわけです。
●二番目のポイント、昔は現在のアメリカ大使館正面から外堀通り旧洗い堰に至り、葵坂へと下る地形は小高い丘になっおり全く現状と相違する点で、溜池埋め立てに平削したそうです。
●三番目のポイント、よって、現在の商船三井ビル(旧満鉄ビル、旧虎ノ門公園)一帯は旧外堀の水中と云う事です。
以上現在地図と照合すると面白いかと思います。
虎ノ門からの外堀は文部省正面玄関前の日土地ビルの筋を新橋方向へ内幸町日比谷シィティーの南から新橋第一ホテルへ抜け高速道路会社線の高架が汐留に達し浜離宮脇から海に通じていました。 現在の外堀通りの北側に在った事になります。港区、千代田区中央区の境界線で確認ができます。… 
この高速道路会社線は東京でオリンピック以前、最初に出来たフリーの高速道路ですが、新橋土橋交差点が外堀の三叉水路で一方向が映画で有名な有楽町数寄屋橋から鍛冶橋、東京駅八重洲口前、鉄鋼ビル、大和証券本社脇の一石橋で日本橋川に繋がる外堀でした。これを敗戦後の戦災瓦礫処理の為めに埋立て出現した跡地です。 新橋土橋交差点にはショウボートという大きなキャバレーがあり、その脇の汐留川(外堀)は水上バスなど観光船の発着場になっておりましたので、架空の銀座九丁目は水の上と、当時はロマンチックな歌に仕上げたのかも知れません。
  《銀座九丁目水の上》
歌手 神戸一郎   作詞 藤浦洸   作曲 上原げんと
   <JASRAC関係の作詞削除>
なお、新橋とは銀座八丁目、博品館ビル、天国ビルの脇、高速道路会社線の高架が汐留川(外堀)跡で銀座通りの小さな橋が新橋です、安政2年(1855)頃には芝口橋と呼ばれた、いわゆる東海道の橋でした。  ……前へ戻る……江戸城外堀 おわり

江戸城外堀》
(5) 溜池、虎ノ門。 釣り場、渡し舟、どうどう
(4) 赤坂周辺。 小泉八雲、朝鮮李王、藤山愛一郎、横井英樹、力道山、二二六事件など
(3) 葛西船の残滓と赤坂紀尾井坂事件簿
(2) 東京教育大学廃校の珍事 湯島界隈
(1) 柳橋から新橋へ