[地域][探訪]  隅田川と戦国武将(1)−2

前回に引き続き隅田川に因んだお話し、戦国武将とこの川の係わりを調べる事に致しましょう。
     
源義家八幡太郎義家)江戸絵
先ずは平安時代後期、朝廷に隷属する形で勃興した新興武士集団の源義家八幡太郎義家)は陸奥の豪族安倍氏懲罰の為に朝廷から陸奥守に任じられた父「源頼義」に応じて陸奥へ出兵、…前九年の役と云います。……その出陣で隅田川千住附近で渡河しますが、その折”熊野権現”を勧請、祈願したのが”南千住”千住大橋そばにある熊野神社、千住側にも義家ゆかりの白旗八幡社がありますが、なにぶん平安時代の事でもあり、神社さんの御由緒でもありますし…余り探求は無理かも?、1050年頃の御話ですから。……

隅田川千住大橋
…もう少し後の話はないのか?、……はい、それでは江戸時代の千住宿を垣間見る事にいたしましょう。 義家が渡河した当地附近の千住大橋徳川家康公が江戸入府の直後、文禄三年(1594)に架橋させたものです。 現代でも近世初期から続く主要幹線道路橋です。 橋のたもと千住橋戸町には江戸時代栄えた河岸が在った場所で、千住橋戸河岸と言えば川越夜船で有名、また荒川を下る物産の集積地、秩父方面から木材の筏なども多く、材木問屋が軒を連ねていたようです。 そこで、当然の成行きは千住宿のお話へ、…旅籠や遊里のお座敷で唄われ船頭が持ち込んだ舟唄、千住節をイチニ御紹介します。……
ハァー九十九曲り、エー仇では越せぬ アイヨノヨー
      通い舟路の三十里 アイヨノヨトキテ夜下りカイ
千住女郎衆は錨か綱か 今朝も”二はい”の船泊めた
舟は千来る万来るなかで 私の待つ舟まだ来ない
舟は帆まかせ舵まかせ 私はあなたに身をまかせ

中でもお女郎さんの心境…金持ち材木商人を唄った意味深な一節があります……
ハァーいくら秩父の、エー材木やでも アイヨノヨー
     お金やらなきゃ木はやらぬ アイヨノヨトキテ夜下がりカイ

余計な寄り道で失礼しました。  因果は廻る……源義家の子孫、源頼朝隅田川との係わりです。……治承四年(1180)に頼朝は源氏再興を目指しますが、小田原石橋山の戦で破れ房州に逃れ、下総で再起した頼朝は房総武士団を糾合、市川国府台から鎌倉を目指します。その数万の大軍は隅田川の石浜付近を渡河し鎌倉入りしたと伝えられます。
更に因果は平家討伐を果たした頼朝は弟源義経に疑義を抱き追討を始めますが、以下…義経伝説、…兄頼朝の追討を逃れた義経は先祖義家の”よしみ”から、奥州豪族藤原氏を頼り隠棲したとされます。……その藤原泰衡は手許の義経を謀殺し首を鎌倉に送り届け平泉藤原一族の安泰を願うのですが、既に藤原征伐を謀る頼朝は躊躇せず文治五年(1189)出陣し浅草観音などで祈願し、石浜から隅田川を再び渡河し平泉藤原氏を滅亡させました。
ここで、日本の歴史と因果の関係は「あざなえる縄の如し」です。奥州平泉藤原氏の先祖とは?…前述の源義家陸奥安倍氏討伐に出兵し、奥州前九年の役後三年の役の当事者清原氏と協力し勝利しておりますが、頼朝が滅ぼした平泉藤原氏とは義家由縁の清原氏の子孫に当る家だったのです!……。

桜橋下流石浜跡
さて、キーワード隅田川石浜とは白髭橋(しらしげばし)上流附近から浅草鳥越附近までの右岸(浅草側)は中世以前、砂利、砂の川岸でした。…往時河口が近く海の潮汐と荒川、利根川の流れで石浜が形成されたとされます。 
江戸時代には造成用の砂利採掘が行われ江戸切絵図には砂利場と記載された場所が真土山(待乳山)近くに在ります。 次回はこの隅田川石浜を舞台にした風雲児”足利尊氏”絶体絶命の太平記の世界です。 ……先へつづく