[人物][歴史] 太平記の世界 (2)−2 足利尊氏武蔵野合戦始末。

最近はもう云いたくもない、聞きたくも無い話に”欠管総理”の去就と、二年続きの暑さです。熱暑も日暮れて夕涼み、などと昔の風情さえ消え失せました。…と云うわけで、エアコンを頼りに戦国絵巻の世界へ。
前回は敗走する足利尊氏が、からくも一命を取りとめ、浅草石浜に立て籠もった処まででしたが、この要害で足利勢は、江戸氏、豊島氏、河越氏も軍勢を建て直し、更には成り行き如何にと日和見の武士団も続々馳せ参じた一大勢力八万騎は人見原、府中国府に再進撃するのですが、その間府中では足利勢の遊撃隊による奇襲で新田義興軍は二分されて本隊二万騎は北へ転戦、義興は南へ壊走します。一方、尊氏を深追いし、期を逃した弟義宗が人見原に戻れば”もぬけの殻”やむなく義興軍本隊に合流を決断して北へ走ります。
目を離せないドラマの如き展開は…南に壊走する大将新田義興は、先に尊氏軍に謀反奇襲し尊氏を窮地に落とした石堂義房軍六千余りと偶然会合して一転、手薄な鎌倉攻めを画策、奪取占拠します。留守番役足利基氏は鎌倉を追われ尊氏の石浜へ落ちて行きました。
上)小手指将軍塚 右)将軍塚頂上 左)小手指古戦場碑
     
            



陣容を立て直した足利尊氏軍は敵のいない府中に戻ってまいりましたが初戦の標的に迷います。鎌倉占拠の新田義興か、北の笛吹峠(武蔵嵐山)に再結集した新田義宗か、…いまだ大軍二万騎を擁する義宗追討を決定。さらに北上して高麗原、入間河原、小手指原で合戦勝利し義宗軍は越後へと落ちてゆきました。
越後に向けて敗走する新田義宗にとって、この小手指原の合戦場は父新田義貞が、過って後醍醐天皇に呼応して鎌倉北条氏を攻める初戦に勝利した場所だったのです。
注)小手指原合戦場(埼玉県所沢市小手指西武池袋線小手指駅下車 西武バス早稲田大学行 所沢ロイヤル病院下車7〜8分小手指原合戦場碑や将軍塚など一帯が古戦場跡地、新田義貞の遺構が多い。……
ここで足利氏対新田氏の清和源氏を同祖とする者の争い、関東の武蔵野合戦は決着しました。
新田義宗は越後で戦死。兄新田義興は鎌倉で義宗軍壊滅を知り、自ら遁走しますが、最後は矢口渡(東京都大田区)で足利基氏に謀殺されます。現在東急目蒲線武蔵新田駅近くの新田神社は殺された義興の怨霊が近在で祟ったのを鎮めるために建立したと伝承されたものです。
享年、兄、義興37歳(1358年) 弟、義宗27歳(1368年)…異母兄弟
足利尊氏の話は終わるのですが、ここで日本史歪曲の御本尊的人物、大日本史編纂で知られる徳川光圀水戸黄門)の存在があります。ではその一端を……早い話が南朝天皇天皇家の正統とする説や足利尊氏逆賊説の創始者であり、またこれは、己への我田引水なのです。 そもそも松平氏であった徳川家康公が将軍として武士の本流たる清和源氏を名乗る為に新田氏の家系を入手したのは周知の事ですが、この徳川家康のガセ清和源氏を自分の先祖として、新田氏が仕えた南朝後醍醐天皇を正統天皇と決め込んだだけのもの、北朝に仕えた足利尊氏が逆賊ならば、新田氏、楠正成も北朝の逆賊になる理屈、現代の天皇家北朝系とされますが!……
また楠正成のお話ですが、徳川光圀(没、元禄13年 1701)の時代より300年以上前の話になるのです。光圀が師と仰ぐ明の亡命儒学者朱舜水”が古文書から延元元年(1336)湊川の戦いで自害した楠正成を見出して光圀に教示したと云われ、光圀が楠正成を知ったエピソードです。
後に光圀が水戸藩主を罷免された隠居の時に建てたとされる『嗚呼忠臣楠子之墓』の碑銘も”孔子”の故事からモジッタもので、この墓碑の讃は朱舜水による長文です。光圀の尊王思想は朱舜水伝授の”明朝”の思想から来ている様ですが、光圀が立派な勤皇の虚像に仕立て上げたものでしょう。これを薩長明治新政府が引き継ぎ、国策として湊川神社(神戸市)を明治5年に創建したものです。上記楠公の墓も湊川神社境内に保存されております。
しかし私のイメージした正成像は中世に貴族、武士、農民で構成される社会で近代化の小さな燭光、工業、商業を育み、取り仕切る人物として”散所の長者”の姿が見える気がするのです。
土地に依拠せず、中世では蔑視される新職業の人々を率い武士でもなく、当然武将でもない彼の心情には複雑な事情があったと想像できます。 後醍醐天皇の誘いに乗ったのは新興職業者の社会身分、職業認知を求める願望実現への行為だったのかも知れません。また江戸末期の浅草弾左衛門こと弾直樹の如き立場と願いが感じ取れるのです。
残念!…負け馬に賭けててしまった結果ですが、彼の身の処し方の潔ぎよさには感慨があります。……
と云うわけですが、水戸光圀は勤皇思想家として薩長明治政府に受け継がれ昭和20年の敗戦まで、その虚像が軍国主義学校教育に利用されました。    ……前へ戻る

太平記の世界》
(2) 足利尊氏武蔵野合戦始末
(1) ”足利尊氏と東京浅草”