[地域][歴史]  太平記の世界 (1)−2 ”足利尊氏と東京浅草”

足利尊氏と云えば太平記の世界ですが、もし東京浅草の要害が無ければ征夷大将軍足利尊氏は新田氏に討たれたか、自害していたかも。東京浅草に中世の武将足利尊氏の生死を分けた古戦場が存在したとは!歴史のロマンを感じます。
     
            
隅田川浅草今戸と待乳山
なにせ絵巻物語のような”太平記”の話ですから、詳細は”講談師見てきたような嘘をいい”の例えも在るでしょうが、大要は云われているところの歴史と同じなのかも知れません。
ものには順序があります。…南北朝時代太平記の根幹から。
…武士階級の勃興により最早形骸化していた朝廷ですが、それでも寛元4年(1246)僅かに残る政治利権の相続に係わり大覚寺統持明院統の二派に分裂して骨肉の争いになります。 見兼ねた鎌倉幕府が調停して両統が交互に十年毎に天皇になる取り決めが成立しましたが。…元弘三年(南朝元号)(1333)に至り、大きな野望を胸に大覚寺統後醍醐天皇が即位すると、取り決めなど眼中に無く大混乱が勃発するのです。 
天皇は大陸中華の皇帝像に触発され親政独裁体制を目指して1333年、諸国の武士に鎌倉幕府の倒幕を呼びかけ、足利氏は北条氏を見限り、新田氏も共に呼応して北条氏を討ち、後醍醐天皇の”建武の新政”が始まりましたが、…疲弊した朝廷には武士、公家に褒賞を与える財力もなく、むしろ彼らの権益さえも侵す状況です。足利氏は新政を見限って脱落します。
ここから後醍醐帝の没落と足利氏討伐の命に協力した新田氏、楠木氏の敗残となり、まさに疫病神的な天皇でした。所詮器でない人物の覇権取りであったのでしょう。
敗れた後醍醐天皇は吉野に立て籠もり正当性を主張し、吉野朝廷を開きます。一方足利尊氏持明院統光明天皇を擁立し、世に云う南北朝時代が始まりました。
しかし、早くも世襲権力のお定まり、お家騒動が足利尊氏の親子兄弟で始ります。 尊氏の弟、足利直義とその養子直冬(尊氏の実子)が離反し南朝に走り尊氏VS弟、子の骨肉の闘争です。
将軍足利尊氏は離反の弟、直義を追討して捕らえ鎌倉に連れ込みましたが、直義は暫くして落命します。 この争いを知った南朝新田義貞の遺児、義興、義宗は北条氏の残党や足利直義派の残党を新田氏父祖の地、上野国に結集させ、尊氏討伐の大連合を組み鎌倉を目指し南下しました。
早くも察知していた尊氏勢は次男基氏を鎌倉に残して谷口(稲城市矢野口…JR南武線矢野口駅付近)に布陣し、更に府中に進出して新田勢を迎撃しました。浅間山を挟む金井原、人見原で激突、大合戦を展開いたします。…
注)金井原→JR中央線小金井駅南の東八道路附近一帯
  人見原→京王線東府中駅多磨霊園駅附近一帯
     
            
都立浅間山公園(新小金井街道
……ところが尊氏軍後衛の武将、石堂義房(降伏した弟直義の家臣)が新田勢と内通謀反を起こし、虚を突かれた尊氏軍は堪らず、一挙に総崩れとなり敗走します。……事態を目敏く望見した新田義宗は天より授かる千載一遇のチャンスとばかり尊氏必殺を期して徹底追尾すれば尊氏勢三万余りは、遂に隅田河畔浅草石浜に追い詰められ、最早これまでと自刃を望む尊氏を家臣が押し留め、屏風を立てた如き自然の要害に立て籠もります。……
…ちょっと、戦況は小休止して、この屏風を立てた如き要害とは何処か?中世の物書きの太平記の事ゆえ、こちらで推理補足が必要というもの。現在も石浜の地名は荒川区南千住の白髭橋西岸一帯で、石浜神社があります。しかしこの地は昔より低湿地で屏風を立てたる要害など求めようがありません。中世の隅田川の河畔、浅草今戸附近の岸は砂利が堆積した状態の石浜といえる場所です。一方自然の要害とは今戸待乳山の事、山ともいえる大きな丘陵が在った事は確かです。中世期は隅田河畔より上野丘陵にかけては低湿滞水地帯です。江戸時代初期には日本堤構築の為に待乳山を切り崩しており、また滞水地帯の埋め立てにも利用したと考えられるのです。私は江戸以前の千葉氏の砦、石浜城も待乳山と推理しており相当に大きな山(丘陵)であった事は確実でしょう。以上の切り崩しで遺構や遺物など全く消滅しと考えられます。
また、川岸一帯も石の堆積から江戸時代には砂利場の地名で呼ばれておりました。… ま、我田引水的な考えかも知れませんが、……
…追撃の新田義宗勢が石浜に追い着いた時は既に薄暮を迎え、前に遊水、背後に隅田川を控えた要害に立て篭もる尊氏追討のチャンスを失い、逆に小勢の深追いは危うしとばかり金井原に引き返します。
しかしその間金井原合戦場では、またまた逆転劇が始り…新田義興軍は大将義興を残し二分し北に敗走する足利軍を追撃します。この時百戦錬磨尊氏の作戦が的中します、予め潜ませていた遊撃隊仁木義長、頼章兄弟の三千余りが好機到来と新田義興を襲撃すれば、義興軍は潰走、南へ落ちて行きますが、そこは太平記の面白さ、この敗残軍が連合して尊氏留守の鎌倉を襲撃占領します。
……戦も佳境に入りましたが、浅草石浜で立て直した足利尊氏軍の再進撃と新田兄弟、義興と義宗の運命は次回にお願いいたします。……次へつづく

太平記の世界》
(2) 足利尊氏武蔵野合戦始末
(1) ”足利尊氏と東京浅草”