[歴史][天皇公家] 南北朝(2)−4 後醍醐天皇即位、天皇家秩序崩壊


          後醍醐天皇photo:wikipedia 清浄光寺
足利尊氏の武蔵野合戦、前回は足利氏始祖の地、足利市でしたが、そもそも清和源氏同祖足利、新田氏の骨肉の争いの根源たる南北朝天皇家について今回は歴史音痴を省みず考えてみました。悪しからず……
…興味を持った概要から、……西暦600年(推古天皇時代)以前の日本は歴史学の対象にはならない、とされますが、さすがに南北朝の頃、88代後嵯峨天皇(1242)の時代は歴史価値のある文書も残され面白い時代のようです。日本国は古代から世襲伝統は脈々と社会に引き継がれ骨肉の争いの根源とも為っております。 近年、報道された堤康次郎氏創業の西武鉄道コンツェルンの親族相克は赤裸々にマスコミが俎上に載せていました。…また、昭和天皇自ら廃した後宮制度が根源となり、皇室典範の「皇統男系ノ男子之ヲ継承ス」が機能不全を惹起する恐れがあり…天皇家と皇族の紛糾が藪の中で起るかも知れません?。……
私の見た日本史とは朝廷も武家世襲相克で「あざなえる縄の如し」です。
では南朝大覚寺統天皇北朝持明院統天皇の争いが武家を巻き込み両統天皇家が骨絡みの闘争に発展した一面を調べますが以下南北朝天皇系図を順次御参照頂き話しを進めます。
    

先ず伏線として鎌倉時代の承久3年(1221年)後鳥羽上皇が起こした鎌倉幕府討伐「承久の乱」に敗れ、後鳥羽上皇隠岐島順徳上皇佐渡島にそれぞれ配流された事件があります。 その行動の結末として朝廷は幕府に憚って諸事細大もらさず伺いを立て従属、皇位継承さえも幕府の管理に委ねられるまでに力関係が変化しました。
さて、年代は下り文永9年(1272)後嵯峨上皇皇位継承した後、遺言を残して亡くなります。 即ち、その内容は以後の皇位継承の指定です、皇子「89代後深草天皇」ではなく、その弟「90代亀山天皇」の子孫を正当としました。……世襲争いの種が播かれたのです。 必然か!、両統の対立が激化し、これに手を焼いた鎌倉幕府は両統公平に天皇任期一期10年後に他統天皇と交代する様に裁定したのです。(但し事情により2代連続あり)91代大覚寺統後宇多天皇」以後は公平に調整し順調に「カワリバンコ」天皇が務めましたが、94代大覚寺統後二条天皇」が亡くなり95代持明院統花園天皇退位後の大覚寺統世嗣邦良親王が幼児の為に、傍系、後二条天皇の弟尊治親王が96代大覚寺統後醍醐天皇となりますが、後醍醐天皇の父後宇多法皇は明確な条件を明記します。……
…即ち、後醍醐天皇は兄、後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎ大覚寺統天皇として位置づけられていたのです。 この裁定を大覚寺統鎌倉幕府も支持する事で後醍醐天皇が目論む自分の子孫に皇位継承が否定されました。
天皇家自ら播いた種ですが後醍醐天皇皇位継承鎌倉幕府(北条幕府)の干渉を不満とし、また中華の皇帝の親政に憧れたのか?、目敏く幕府の疲労弱体化を察知した後醍醐天皇は有力武家に鎌倉討幕を号令します。……以下次回 
天皇家派閥のキーワード解明』……
大覚寺統……京都嵯峨に在る大覚寺亀山天皇後宇多天皇が退位後に出家して住み院政を敷いた事から系統天皇子孫の名称。 《注目》両天皇とも仏教に帰依して出家している事です。
持明院統……出羽、陸奥国など北部防備の鎮守府将軍藤原基頼が京都の邸内に持仏堂「持明院」を営み、これを基に藤原基頼の子孫は持明院家と称していた。 88代後嵯峨天皇と89代後深草天皇が譲位後に持明院家邸内に住み上皇として院政を行なう。 よって後深草天皇から100代(北6)後小松天皇までの系統を持明院統と呼ばれた。 《注目》今日謂われる如く現在の天皇家万世一系とすれば北朝持明院統の子孫なのです。    ……先へつづく…    ……前へ戻る

南北朝天皇家
(4) 鎌倉幕府北条氏宰領下の天皇は…
(3) 有史最大 朝廷と武家の”ゴッチャ混ぜ”闘争
(2) 後醍醐天皇即位、天皇家秩序崩壊
(1) 足利氏始祖地 足利市鑁阿寺