[人物][地域][歴史]  お江戸日本橋今昔(3)−3 長谷川時雨の世界と小伝馬町囚獄の実態

それでは今回は日本橋三井タワーの交差点(街道追分)を右折して日光街道奥州街道に入り江戸時代の日本橋の中心地大伝馬町へ移動します。……その前に日本橋には徳川家康入府以前に被差別民の頭領”弾左衛門”が日本橋室町(日本橋尼店)に居を構えお仕置き場(日本橋本町)もあったそうです。(”御府内備考”などより)
弾左衛門”は家康入府に際してお出迎えして鎌倉以来の自らの地位を頼朝御証文(由緒書)を提出して家康公の御用を承る事に成功して徳川三百年の間、長吏頭領の地位を守っています。日本橋に居た理由?は、鎌倉幕府から職掌としての情報収集とお尋ね者探索ではとの説もあります。
また、この地域は江戸時代商売別に区域が分かれていた様子でして、現在の室町2丁目附近は越後屋の江戸進出前は両替商が街を構成しており異業種呉服屋参入の罪滅ぼしとして越後屋は両替商も始めて発展したのが今の三井本館(三井銀行)になったとされます。三越デパート前の室町1丁目附近は旧魚河岸の北の地域で江戸以来の海産物の大店、料理屋などの商業地帯です。
その更に北側本町3丁目が薬品問屋の街で現在も医薬品会社の建物が林立しております。ここの本町通り(日光街道)先で大門通り人形町旧吉原大門)の交差点が大伝馬町で太物呉服問屋や大丸呉服店で賑った街がありました。
大伝馬町大丸呉服店 右)長谷川時雨
 
     

この界隈に生まれ育った女性「長谷川時雨」の少女時代の回想『旧聞日本橋』は明治初めの日本橋界隈の生活人情を克明に残した名作で大変人気のある本です。
もはや江戸、明治の日本橋界隈の生活情景など、この本に頼るしかありません。そこで、この本からピックアップしてタイムスリップして戴こうかと考えました。長谷川時雨は明治十二年、文明開化の新職業、代言人(弁護士)の父長谷川深造の長女として現在の中央区大伝馬町14番地で生まれ当時の通油(とおりあぶら)町です。大伝馬町の繁華な界隈で彼女の家の在った小路は厩新道と呼ばれており、小伝馬町の牢屋の罪人引き廻しの馬小屋が近くに在りました。
彼女は大正、昭和にかけて女性劇作家の第一人者で昭和三年には”女人芸術”を創刊主宰して神近市子、平林たい子宮本百合子林芙美子円地文子、など多数の女性を世に送り出したのです。 昭和16年没(1879-1941)
”旧聞日本橋”を読み進むにつけ、日本橋界隈の明治期の世情と生活の実態は私達が想像する抽象的な認識とはいささかかけ離れていた事に驚かされます。大丸呉服店の店売りの情景、子供が蝸牛(かたつむり)を焼いて食べる話、コレラが大流行して軒並みに罹病者が亡くなるなど。更に街には多くの囲われ者(お妾さん、二号さん)の女性も普遍的な立場で生活していること。
「旧聞日本橋長谷川時雨 岩波文庫から日本橋界隈を覗いてみます。アンポンタンこと長谷川時雨の生活がはじまったのも、……かなり成長してからの眼界も、結局この街の周囲だけにしか過ぎない。で、最も多く出てくる街の基点に大丸という名詞がある。これは丁度現今三越呉服店を指すように、その当時の日本橋文化、繁盛地中心点であったからであるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四辻に、毅然と聳えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。……
《親のために娘を身売りさせる習慣》 
親類の元直参旗本藤木氏に係わる話、彼は後芸者置屋の主になり繁盛した。……ある日藤木夫妻と娘とが、私の祖母と母の前に並んで座っていた。私もそばへ行って座った。丁度父が外から帰ってきて客の待たせてある室へゆきがけに通ると、母が縋るように言った。おあさが小蒔屋へ行くことにきまりまして-そうか、金助の家か?……藤木夫妻の望みと抱妓をほしがっている小蒔屋との交渉が、おもいがけなく私の祖母から出来上がってしまったのだった。おあさのために御馳走がならべられて、口々に褒めた。おあさは孝行ものだ、親孝行だ。父までが藤木さんに杯口を与えながらいった。おれの家でも女の子が多いから、芸妓やはじめると資金(もとで)入らずだが-
私は子供心には言いあらわせない反抗心がグイグイと胸をつきあげていた。
その時、父も厭だった、褒めそやす母は一層憎かった。普段は好きな祖母も、そんな話をしたかと思うと悲しかった。もとより、芸妓は美しいものとして、その他の悪いことは知っていようはずもないのに、なぜか、なんとも言えない泣きたい思いを堪えていた。親孝行なんて、親孝行なんてなんだ ただそう叫びたかった。……

《明治時代の歯医者さんは》
日本橋浜町の清正公(せいしょうこう)の傍までアンポンタンは歯を抜きに行きます。
……清正公様の傍に歯をいたくなく抜いてくれる家があるというのでいったら、小さな家で、古い障子を二枚たてて、歯みがきを売っている汚いおじいさんが抜いてくれた。大きな樹の”うれ”に、小さな蚊虫がふよふよと飛んでいる夕暮れでうす暗い障子のかげで、はげた黒ぬりの耳盥(たらい)を片手にもたせて、上をむきなさいといわれた。
おじいさんの膝頭に頭のうしろをもたせかけ、仰向けにさせられると、その腐ったような顔とむきあった。おじいさんはやっとこみたいなものをもっている。 怖いから眼をつぶったら、ガクリと音がして搖れていた歯がぬけた。ポコンと穴があいて、血がいくらでも出る。口もゆすがせないで、きたない手でおじいさんは白い粉の薬をつけてくれた。……

《三光新道と鼠小僧》
人形町交差点、玄治店跡石碑の並びを小伝馬町方向に40M程、落語”百川”の外科医鴨池玄林の住む三光新道(三光稲荷)には江戸の義賊?鼠小僧次郎吉も住んでいました。-老母よりの書信-
鼠小僧の家は、神田和泉町ではなく、日本橋区和泉町、人形町通り左側大通りが和泉町で、その手前の小路が三光新道、向側人形町通りを中にはさんで…三光新道が鼠小僧の家、母親と妹がすまっていて、妹には旦那があって、その旦那の来ている時は、表のこうし戸の前に万年青の鉢植えが出してある。 鼠小僧は小がらな、うすあばたのある、ちいさなよき男のよし、その母は引き廻しの日にとうといお寺へ参って坊さんになったそうです。…またアンポンタン(時雨)の祖母は引き廻しで刑場に向かう姿を目撃しているようです。…祖母はよく見て知っていたといった。引き廻しの時も、前のうまやから馬が出て大通りを通ったが結城の着物をきて薄化粧をしていたといった。
《仕立屋銀次》 
御年配の方は御存知、伝説的なスリの親分仕立屋銀次も当時、時雨の家の近所の仕立て屋の職人だった。……井坂さんは類まれな世話やきの親切ものだった。 向こう新道の、例の角のおいもやさんの後の、大丸のおあぐさんの家の塀の前に住んで小僧さんと職人の三、四人がいた。…そこの店にスリで有名になった仕立屋銀次がいた。そのころ、親方浜さんも大たぶさ、銀次も大たぶさだったかと、うろお覚えている。銀次という職人は青い顔の、眼の横に長い、刀のような目付きの人だったと思う。 祖母が言ったことがある、あの職人は、鼠小僧によく似ていると。……
小伝馬町の牢屋敷》
そこでどなたも気になるお隣の町へと自然に話が進む事になります。
明治の半ば時雨の見た牢屋跡は空き地になって見世物小屋などが曲芸、講釈の怪談噺など大掛かりな仕掛けで大変な賑わいだったそうです。父、深造の書いた旧幕時代牢屋敷之全図を現在の地形と比べようと思います。
     


     
現在の略地図に小伝馬町牢屋敷の敷地をあてはめると赤線の内側に該当します。大安楽寺境内の斬首場跡には供養の地蔵尊があり下図と比較すると場所が一致している事が分りました。下記図は時雨の父深造の書いた旧幕時代牢屋敷之全図からピックアップして写したものです。 
深造はお玉が池千葉道場の剣士で維新後の江戸城警備や役人にもなった人ですが其の縁で牢屋跡地の一部分を下げ渡されるのを辞退した理由を次のように述べております。
斬首場跡地大安楽寺地蔵尊
……「お父さんは欲がないから、断ってしまったのだとお言いなのだよ。今じゃたいした土地なのにねえ」母は、土地一升金一升のまんなかで、しかもめぬきの土地の角地面の地主さんになれなかった恨みを時たまこぼす。「あすこはな、不浄地といってたが、悪い奴ばかりいないのだ。 今と違ってどんなに無実の罪で死んだ者があるかもしれやしない。おれは斬罪になる者の号泣(なきごえ)を聞いているからいやだ。逃れよう、逃れようという気が、首を斬られてからも、ヒョイと前へ出るのだ。しでえことをしたもんで、後から縄をひっぱっている。
前からは、髷(まげ)をひっぱって、引っぱる。いやでも首を伸ばす時に、ちょいとやるんだ。まあ、あんな場処はほしくねえな。」……
  ……おわり…   ……前へ戻る

《お江戸日本橋今昔》
(3)長谷川時雨の世界と小伝馬町因獄の実態
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