[地域][歴史] お江戸日本橋今昔 (2)−3

江戸幕府制定の五街道の中心点「日本橋」北詰めから日光街道中山道奥州街道甲州街道が始り、南詰めからは東海道となります。
今では橋の北詰め交差点に三越の新館が建てられ流石に三井さんの城下町の感が致します。さらに旧街道の変わり果てた姿?の中央通りを歩きますと、三井越後屋の「三」と「越」を因んだ名前「三越デパート」のライオン入口の交差点があります、三井本館に挟まれたこの通りが駿河町筋で、ここから見事な富士山が眺められたと云われ町名の由来です。越後屋のお店が両側に繁盛する江戸版画があります。
江戸名所日本橋駿河町 広重 
私には越後屋と云えば、すぐに向島三囲神社(稲荷)となります。このお稲荷さんは今でも江戸情緒のエッセンスとして貴重な存在ですが、越後屋三越)の商売繁盛の守り神でも有名、デパートの屋上には勧請された祠がある筈です。一方三囲神社境内には越後屋以来の誼の奉納遺構が沢山あり越後屋先祖を祀る見事な顕名霊社、越後屋の恵比寿大黒を勧請した月読社、三井家から移された珍しい三柱鳥居、三本柱亭、日本一”きりょう”良しな石の狐は太物(木綿)を商う越後屋向店奉納のコンコンさん。元池袋三越の門番ライオンのブロンズなど多彩です。…その他、宝井其角の句碑をはじめ江戸遺構の石碑、歌碑が林立しております。…ちょっと気付いた事は越後屋は三井に因んで「三」の数字を大事にしたのでは?、京から江戸に発展した越後屋の守り神に「三」の付く?三囲稲荷を勧請した事や、三柱鳥居とか、三本柱亭、三越、などと。……
この地域の新ランドマークに超高層の日本橋三井タワーが中央通りの三井本館隣にあります。この交差点が旧街道の追分で日光街道は右折し、江戸時代の商業の中心大伝馬町から浅草御門、蔵前、浅草、千住大橋に至ります。
また 中央通り三井本館前の”東レ”ビルが「コレド室町」に建て変っておりますが北側の路地はお江戸のころ賑った浮世小路です。……三遊亭円生さんは「江戸散歩」 朝日文庫の中に……本石町寄りの横丁を浮世小路とも、たべ物新道とも云う。昔は浮世茣蓙を商ったというので浮世小路という名前がついた。また一説には、その茣蓙屋のできる前に、いわゆるトルコ風呂みたいなものでしょうね、湯女というものがいたというんで、……と紹介しておりますが落語”百川”が在った場所でもあります。江戸屈指の料理屋で明治の初年まで実在したそうです。噺に出てくる福徳稲荷は中央通りから最初の四辻左のモルタルの建物の屋上に今でも鎮座しております(再開発で現存しませんでした)。
では落語好きには有名な三遊亭円生さん十八番”百川”の粗筋…
合本東京落語地図 佐藤光房著 朝日文庫より。
日本橋の浮世小路、福徳稲荷のあたりにあった懐石料理の「百川」に、葭町(よしちょう)の千束屋(ちずかや)からの紹介で、山出しの奉公人百兵衛さんがやってくる。採用と決まったとたん、二階で客の手が鳴った。 客は魚河岸の若い衆だ。百兵衛さんがご用を聞きに二階へ。
ところが百兵衛さんのなまりがひどく、「わしはこの主人家(しじんけ)の抱え人(かけえにん)で」という自己紹介を、連中は「四神剣の掛け合い人」と聞き違え、肝を冷やす。
前年、当番だった祭りで金を使い過ぎ、穴埋めに祭具の四神剣を質に入れ、それっきりなのを隣町から掛け合いに来たと勘違いしたのだ。 百兵衛さんが大きなクワイのきんとんを涙を流しながら丸呑みにしたり、思い違いのこっけいがいろいろあったあと、百兵衛さん、連中のいいつけで長谷川町の三光新道に常磐津の師匠歌女文字(かめもじ)を迎えに行く。
ところが途中で先方の名前を忘れ、「かの字のつく名高い人」ときいて回って、外科医鴨池玄林(かもじげんりん)宅へとび込んでしまう。 「河岸の若い連中が今朝がけに四、五人来(き)られやして」という口上を「袈裟がけに四、五人切られて」と聞き違えた鴨地先生、あわてて百川へ駆けつける。
たび重なる間違いに連中はカンカン。 「抜け作め、そっくり抜けてやがる」とののしるが、百兵衛さんあわてず騒がず「かめもじ、かもじ……、そっくりではねえ、たった一字だけだ」。……

噺の中に出てくる三光新道は日本橋堀留2丁目に今でもあります。ここには江戸の義賊鼠小僧が住んでいたところで、詳しくは次回、長谷川時雨の「旧聞日本橋」の世界へ……次へつづく…  ……前へ戻る

《お江戸日本橋今昔》
(3)長谷川時雨の世界と小伝馬町因獄の実態
(2) 日本橋界隈-2
(1) 日本橋界隈-1