[将軍家][人物][歴史]  家康公逝去と日光移葬

”茶茶、初、江”の浅井三姉妹織田信長の家臣であった秀吉や家康とはかなり接点が在った様に考えられております。特に”江”は秀忠に嫁するまで四度の婚姻も秀吉の采配にようるもので、徳川秀忠正室となって将軍家光を生し、女児和子は後水尾天皇中宮として109代明生天皇(女帝)を出生、お江与天皇の祖母としても、徳川将軍家天皇家に係る歴史上唯一の女性と云えるでしょう。
この”江”の人生の集大成完結とも云える「秀忠との婚姻」には秀吉、家康の配慮が決定的なものになりました。そのキーマン、家康公の逝去は二代将軍徳川秀忠にとっても大きな試練…葬送から遺言実行の一大イベントの経緯進捗を追跡してみましょう。
日光東照宮陽明門と家康公宝塔
                 
             
日光東照宮の謎 高藤晴俊 講談社現代新書
……元和二年(1616)一月二十一日、駿河の田中に鷹狩りに出かけた家康は、その夜にわかに発病し、同月二十五日駿府に帰城した。その後、小康を得た時期もあったが、四月になると病状は悪化の一途をたどり、自ら死期の迫ったことを悟った家康は、数々の遺言を残している。
二日頃には本多正純南光坊天海、金地院崇伝を枕元に召して、死後の処置について指示している。その内容は崇伝の日記(本地国師日記)によれば、一両日以前、本上州、南光坊、拙老、御前へ被為召、被仰置候ハバ、御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候、とある。
すなはち「遺体は駿河国久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国大樹寺には位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」そして、神に祀られることによって「八州の鎮守になろう」と指示したのである。この遺言によって、のちに日光山に東照宮が建立されることになるが、……

上記の遺言を残して元和2年(1616)四月十七日家康公は75歳の生涯を駿府城でとじました。天台宗に帰依していた家康公は天海僧正創起する山王一実神道に則り薬師如来を本地佛とする東照大権現として創建の東照社(のち東照宮)にお祀られ、以後の段取り経過は指示(遺言)に従い行われ、直ちに遺骸は久能山に移され、仮殿竣工の十九日夜、将軍秀忠以下、家康に近仕した家臣をはじめ数百人の葬列は柩を仮殿に移し神道による儀式を行っております。一周忌を大過なく成し遂げた将軍秀忠の最大難関は遺言による久能山から日光山への移葬です。
元和3年(1617)三月十五日早朝、南光坊天海自らが鋤鍬をとって埋葬された家康公霊柩を金輿(きんよ)に移して、日光遷座の一行は本多正純松平正綱板倉重昌、秋元泰朝、永井直勝、榊原照久、など三百余騎、雑兵千人の大行列で、きらびやかに装い、霊柩を奉じて久能山を出発します。日光までの大葬列のコースを現在地名の行程で調べてみました。
《霊柩宿泊地と行程》
3月15日 元和3年(1617) 久能山出発…… 
1) 3月15日     富士市今泉善徳寺     1泊   36,1km
2) 3月16、17日  三島(三島市)        2泊   21,1km        
3) 3月18、19日  小田原(小田原市)     2泊   40,0km
4) 3月20日     中原(平塚市)        1泊   21,3km   
5) 3月21,22日  府中(東京都府中市)    2泊   46,3km
6) 3月23,24,25,26日 仙波(川越市)   4泊   30,6km
7) 3月27日     忍(埼玉県行田市)     1泊   27,4km
8) 3月28日     佐野(栃木県佐野市)    1泊   23,5km
9) 3月29,30,31,4月1,2,3日 鹿沼    6泊  40,7km
4月4日       日光到着 座禅院へ。          29,0km
以上大雑把な距離概算316kmと所要日数19日間の行程で無事日光到着となりました。それでは神柩(霊柩)遷座行列の宿泊地を具体的に追跡しますが、残念ながら善徳寺(富士)、三島、小田原、忍(行田)は宿泊場所の具体的文書が見つからず私の推測になります。悪しからず。また、思わぬ楽しみは宿泊地間のコースを詳細地図を広げて調べますと江戸初期の古道の一端も見えた事です。
      
家康公霊柩日光遷座コース略図
《霊柩宿泊地の詳細》
1)富士市善徳寺と記載がありますが、この寺は岳南第一の寺院といわれ応永14年(1417)今川範政が寺に併設して築城した記録があり、永禄12年(1569)武田信玄駿河侵攻で総て戦火焼失しております。 一部の古文書に善徳寺村の土地名が見え、善徳寺は地名と判断しました。 善徳寺跡といわれる富士市今泉地区には御殿跡があり家康公の駿府、江戸往還に利用したお茶屋御殿です。 善徳寺は善得寺とも表記されております。 霊柩の宿泊場所は御殿と断定しました。
2)三島市、ここには慶長6年(1601)に家康により東海道が整備され三島宿駅開設以来、将軍本陣としての御殿跡が残り、家康は鷹狩りにも利用したといわれます。 霊柩の宿泊場所は御殿と断定しました。
3)小田原市、当地では市中に御殿は見つからず小田原城内本丸に将軍御成り御殿が存在しました。霊柩の宿泊場所は小田原城内御成り御殿と断定しました。
4)平塚市中原、霊柩宿泊は御殿。 平塚市中原に家康の鷹狩り宿泊の御殿があり正保年間(1640年代)に取り払われ、御殿跡に東照宮を勧請してます。現在は日枝神社境内に移転した石造の小祠です。
5)府中市、霊柩宿泊は御殿。 府中市本町一丁目に家康の鷹狩り御殿の跡があります。 正保4年の大火で焼失。
二代将軍秀忠は家康公神柩府中宿泊を伝える為、大国魂神社東照宮建立を命じ、現在も境内に末社として存在しております。
6)川越市仙波、霊柩宿泊は”喜多院”。 川越は霊柩遷座行列の最大意義のある宿泊地です。 家康が帰依した天台宗僧天海の大寺院で東照大権現と家康霊神格化には天海の尽力の結果であり、東照宮創建の具体的計画実行者でもあった天海の由緒ある寺院です。家康は天海を称して、『天海僧正は人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを。』と、寛永15年(1638)の川越大火で喜多院焼失で三代将軍家光は江戸城紅葉山大奥御殿を移築しますが、建物には”お江与の方”が家光出生の部屋もあり有名です。 天海は境内に東照宮を建立しております。
7)行田市忍城跡があります。御殿は見当たりませんので城内宿泊と考えられます。 慶長5年から寛永3年(1600〜1626)までは幕府天領となっており忍城は城番が管理しており、霊柩宿泊は忍城内と断定します。 なお行田市本丸の忍東照宮は明治に至り藩主移住にさいし、城内松平氏東照宮明治4年諏訪神社境内に移転したものです。
8)佐野市、霊柩宿泊は”惣宗寺”。佐野市内。 家康の重要側近だった老中”本多正純”は境内に御殿を準備し神柩を迎えております。 境内の佐野東照宮本多正純の造営御殿を社殿に、勧請したもので、その後文政11年(1828)幕命により造替現存。 正純は二代将軍秀忠の時代に失脚して出羽横手(秋田県)に流罪
”惣宗寺”は足尾鉱毒事件で著名な田中正造にも縁があり正造の墓もあります。 佐野厄除け大師でも有名寺院。
9)鹿沼市、霊柩宿泊は薬王院。当寺での長期滞在は日光入山の都合で日時調整かと考えられます。
日光市、座禅院に安置。 座禅院につきましては、霊域日光山の開祖”勝道上人”が天平時代建立の”四本龍寺”から変遷して、満願寺光明寺、座禅院となり天海僧正により山内再び活況して、明暦一年(1655)には日光山輪王寺となり現在に至ります。
霊柩は元和3年(1617)4月8日、既に竣工なった東照社(東照宮奥の院の廟窟地下に埋葬され、家康神霊遷座の儀をおこない、4月17日二代将軍秀忠参加のもと小祥忌(一周忌)を執り行い東照大権現は日光に鎮座しました。二代将軍秀忠は無事大役を果たしましたが、追跡する私もいささか疲れました。……頼まれもしないのに勝手な趣味でしょう!、はい、当たりです。…
お江与の生した家光三代将軍の大猷院霊廟は日光東照宮に寄り添うように建てられて居りますがそのお話は次の機会に。
注)現在の東照宮は三代家光により改修新築された建物です。
参考、引用資料)
 日光市史 中巻    日光市
 日光東照宮の謎  高藤晴俊    講談社