[地域][歴史]  お江戸日本橋今昔 (1)−3

東京では昔から広大な地域が日本橋と称しております。橋を中心にした概念的な日本橋一帯以外でも、現在地名に日本橋を冠している町は隅田川畔にまで及ぶのです。町名を揚げてみますと、日本橋大伝馬町日本橋小伝馬町日本橋兜町日本橋茅場町から日本橋人形町日本橋馬喰町と、更に隅田川岸の日本橋浜町日本橋箱崎町まで含みます。では順次お江戸の縁を歩いてみましょう。
     
現在の日本橋交差点の角、昔の白木屋デパートの跡には高層ビル「コレド日本橋」があります。江戸以来の呉服商白木屋は随分と話題を残したお店で、呉服屋さんから近代的デパートに変身して東京屈指の百貨店になりましたが、昭和7年(1932)に営業中に大火災を起こし犠牲者14名の事件でした。
はな(端)から御婦人に係わる話で恐縮ですが、この火災に因んで職業婦人の洋装化に繋がる珍しい話しがあります。『当時の女店員は和服で襦袢に腰巻という服装ですから、ロープを伝って必死で脱出する真下に屯す野次馬連中の為、頼みのロープから片手を離し裾を押さえ墜落する女性店員が多数いたそうです。』白木屋デパートは翌年から女店員に洋装を奨励、ズロースを穿くことを義務付けたとされます。…また火事の因縁では会社乗っ取り仕手師で有名な横井英樹がこの白木屋デパートの仕手でも華々しく世間を騒がせましたが、後に赤坂ホテルニュージャパン経営中に大火全焼し宿泊客に多くの犠牲者を出してホテル安全義務違反で実刑服役しております。
その他名物には江戸以来の”白木の名水”がありましたが、デパートのエスカレーター地下2階脇にこんこんと湧いていたのを私も少年の頃の記憶にあります。…
日本橋交差点から北へ西川ふとん店まえから日本橋に参りました、橋の由来は省略いたしまして、江戸時代には日本橋の南詰(日本橋交差点側)の西袂は東海道の高札場で現在は石造の記念碑があり、東袂(日本橋西川並び)に在る広場付近(交番あり)には罪人を通行人に晒す小屋が在りました。
ここで享保八年(1723年、8代将軍吉宗)には心中未遂の男女を罪人として三日間衆人に晒す事(晒し刑)が始り非情にも艶めかしい見世物と野次馬がつめ掛けます。
幕府の”心中法度”の要旨は《男女申合にて相果候者之儀、双方共に存命候ハハ、三日晒し、非人之手下二而可申付候》で始り、心中者は埋葬を許さず取り捨て。未遂の場合、双方共に生残れば三日間晒しの上、人別帳から抹消する。一方が生残った場合、下手人として処刑、でした。……当時上方で近松門左衛門の手による心中物浄瑠璃が流行り武家の子女までにも広がります、やがて江戸にも飛び火し歌舞伎狂言人形浄瑠璃、絵草子を介して更に熱狂しました。その影響か、厳しい社会の掟に阻まれた男女が甘美な心中に走る社会事件が激増したのです。  注)近松門左衛門曽根崎心中心中天網島など知られております。
その他重罪人の晒しなどもあり明治維新直前の記録には獄中死した犯人を大甕に塩漬けにした晒物など、甕の捨札(罪状書)には奉公人が主人を襲い重傷を負わせ捕らえられ獄中死し、罪状は主人殺しの重罪に等しく”御定書第六十九条” 人殺し並びに疵付けし者。 一、主殺し二日晒し、一日引廻し鋸引の上磔、同じく手負と為し候もの晒の上磔。と御定書から断罪宣言したものです。……
橋を渡り日本橋北詰め東袂に魚河岸の碑があります。ここから江戸橋までの河岸が日本橋魚河岸跡地です。今では全く変貌した大都会の一部でしかありませんが徳川家康に因む場所でした。……家康が天正年間から大阪夏、冬の陣にかけて攝津国(大阪)西成郡佃村、大和田村の漁民から篤い協力を得た誼があり幕府成立後慶長十七年(1612)に漁民三十三名を江戸に招き江戸湾での幕府御用魚の漁獲権利を与えたのが始まりです。  漁民達は佃島を埋め立て居住してお城御用達の魚を納め、更には余剰魚の販売を許された佃島名主森孫衛門が日本橋に店を開き繁盛させます。 
これを核に徐々に商人が集まり市が開かれると日本橋河岸に水揚げされる魚で魚河岸が成り立ったそうです。なお築地本願寺の片隅には名主森孫衛門の供養塔があります。 関東大震災を契機に日本橋魚河岸は東京市築地卸売市場の大鉄傘の近代市場に移転、現在に至りますが大分クタブレてきました。
この界隈で魚河岸の片鱗を強いて探すとすれば旧魚河岸の北、日本橋室町一丁目附近に日本橋の大店、鰹節のにんべん、海苔の山本屋、はんぺんの神茂、刃物の木屋などでしょうか、旧安針町もありました。徳川家康から三浦安針の名をもらったウイリアムアダムスが屋敷を構えた場所といわれます。……次へつづく

《お江戸日本橋今昔》
(3)長谷川時雨の世界と小伝馬町因獄の実態
(2) 日本橋界隈-2
(1) 日本橋界隈-1