[天災][地域] 東京都市災害(3)−6 海中都市東京

お江戸以来の大川、隅田川や縦横に運河のはしる街東京東部地区の河畔には、近年瀟洒な親水プロムナードが造られ美しい水面、洋々たる大川の小波が足元まじかを洗い、心癒される環境は地方はおろか東京都心ならではの得難い良さが楽しめるようになりました。河畔には高層住宅が林立して環境の良い近代都市の雰囲気も一入です。
国交省や河川事務所、東京都の努力によるものですが、実はこの役所が提供する河川管理なくして、この地域では一日たりとも居住生活は存在し得ない現実があります。
4、50年前を思い返しますと水害、台風高潮に備え主要河川の堤防は嵩上げされたコンクリートのカミソリ堤防が築かれ、各運河と大川の流入口は巨大水門で防備し、港湾地域には高潮堤を廻らし水害に備えるコンクリートの機能本位が東京下町でしたが、より快適な居住環境の構築へ視点が移り水辺プロムナードなど堤防の付加価値を加味した改修が行われたのでしょう。しかし、本来云われてきたゼロメートル地帯の湾岸部や江東区墨田区江戸川区葛飾区などは河川管理の基本、「堤防」「水門」「揚水ポンプ」の重要骨格は現在も全く同じ事です。
ゼロメートル地帯の実体が良く分かるルートに小名木川があります。御存知、徳川家康公が江戸入府後すぐに掘削した運河として有名で、隅田川小名木川口の万年橋畔には松尾芭蕉芭蕉庵が在った場所ですが元禄五年(1695)この近くの隅田川に新大橋の竣工を喜び、”有難や頂いて踏む橋の霜”…と、
では芭蕉庵にちなんだ句で、ちょっと息抜きを……
 ”名月や門にさし来る潮がしら”
  ”ふる池や蛙飛びこむ水の音”      
      ”川上とこの川下や月の友”        
        ”名月や池をめぐりて夜もすがら”
          ”草の戸も住み替る代ぞひなの家”
伊賀上野出身の芭蕉さんもすっかり江戸人になり、”秋十(と)とせ却而(かえって)江戸を指す故郷”とも詠んでおります。
”秋に添て行(ゆか)ばや末は小松川”の俳句からも芭蕉さんは小名木川を辿り歩いたのでしょう。…あやかりましてゼロメートル地帯の探索をします。
まず、万年橋を過ぎると隅田川からの高水位をブロックする巨大水門があります。その先が森下高橋です、昭和初期までは蒸気船の発着ターミナルでした、「青べか物語」の浦安、行徳航路の通船もここが発着場所です。
さらに進むと珍しい運河の十字路、その先に突然水門らしき構造物が川を塞ぎます、これが船舶用の閘門(こうもん)です。御存知パナマ運河と同じシステムの水位差のある水路に船舶を通過させる設備で、墨田川からの船を沈下地盤地域の水位に調整して航行させ、また逆行も出来ます。
     
小名木川扇橋閘門
昭和五十二年に完成したこの閘門の簡単な原理にふれますと、全長110m、幅11mの水路の両側に水門(ゲート)を設け、進入船舶の水位に合わせる為に閘門内外水位差を利用、ポンプ併用で注排水します、ゲートを開き船舶を導入後ゲートでシールドします、次は進行方向水位に合せて閘門内を注排水し水位を調整後、進行方向ゲートを開放し、船を退出させます。扇橋閘門の隅田川より小松川方面では2〜3mの水位差があり、即ち沈下地盤の落差とも云えます。…この閘門の役目は隅田川の水位が地盤沈下地帯へ流入を防ぎ、かつ船舶を航行させるシステムです。
が、明治大正時代の物流大動脈小名木川も利用船舶が無くなり荒川口(小松川)に必要な閘門は設置されず現在は閉鎖水路と化しております。 閘門設置以前の状況は小名木川を渡る橋上から水面を眺めれば満潮時など地盤より遥かに高い水面に驚かされたもので、この小さな川の堤防が高い刑務所の塀の様に連なり残されております。と云うわけでゼロメートル地帯とされる人工都市はつつがなく都市機能が維持されておりますが、今回の東日本大震災に体験した大地震を想定した対応は常に必要でしょう。…冒頭の電気をエネルギー源としてた堤防、水門、揚水ポンプのインフラが破壊された時は海中都市東京の悪夢もまた存在します。……前に戻る…  ……先へ続く…    

《東京都市災害》
(6) 日本堤はお江戸の防災拠点
(5) 荒川大規模水害東京地区の想定データ
(4) 東京大洪水と荒川、隅田川
(3) 海中都市東京
(2) 江戸東京の災害
(1) 東京災害と空襲