[歴史][地域]  東海道(6-1) 鈴ケ森刑場と大森海岸

東京近辺も梅雨いり間近か、今年の春は短く荒れ模様の季節でした。 原子力発電に関わる騒ぎも止みそうにありません。 また、忘れてならない地球温暖化の弊害も深刻なのですが。…
このブログもお江戸の下町やら川向こうに偏重していたので、今回は東海道を大森海岸から品川宿へと歩きます。 昔は京浜急行大森海岸駅前の東海道沿いが大森海岸と云われた場所ですが既に戦前から大きな料亭が建並び最近では遥か沖合いまで埋立地となり駅名とは乖離した場所柄です。
見覚えた戦前戦後の情況から…、それでは昭和2、30年代の第一国道大森海岸の風景ですが、大料亭が国道に並んで見事な景観だったのです。
今でも記憶に残るのが悟空林、小町園、やなぎ、なかでも悟空林は昔で云う大廈高楼(たいかこうろう) の屋根にネオンサインを輝かせ一際目立ちました。 
ここの名物は”かに料理”ですが、江戸前の”ワタリガニ”の事です。戦前は東京のカニ料理屋も総て東京湾ワタリガニで商売をしており、北海の”タラバガニ”などは缶詰”カニ缶”で、例の”蟹工船”が大量生産していたものでしょう。 ま、ボリュームのある高級品ではありましたが。 現在の大森海岸はマンションが建ち並び昔の風情は一片たりとも存在はしておりません。 この海岸埋立地には今人気の品川水族館、その先には大井競馬場、更に先には大井コンテナ埠頭でやっと海に接しております。
この大森海岸鈴ケ森一帯には幕府公許吉原(葭原)遊郭の発端になる逸話があります。…なぜか気になる、私の話には遊郭が出てまいりますが、…理屈をいえば、封建社会江戸時代には米作りを頂点に大きな産業?は女性に関わる風俗が占める現実があるのです。…
実は知ってる人は知っている程度の有名人?庄司甚右衛門と云う小田原北条氏の元家臣の浪人がこの鈴が森で若い女性を集めて茶屋を開き、街道御通行の家康公御一行に茶をもてなし女達に御接待させます。幸い御意を得て見識り置かれ、元和3年(1617)に首尾よく幕府公認吉原遊郭開設の御許可を頂戴し、江戸女郎屋の元祖元締めになったと話し継がれ、これが人形町付近に出来た元吉原(葭原)遊郭の発端だそうです。……
             
                               鈴ケ森刑場跡
第一国道のマンション群の外れに国道から旧東海道が斜めに分岐します、この国道と旧道のデルタが旧鈴ケ森仕置場の遺跡で、この地も都市近代化で東海道に変わる第一国道により旧刑場遺構の大部分は道路用地で失はれ、僅かに大経寺境内に東京都史跡として磔柱を立てる石台と火刑の石台、首洗い井戸など、また各地の刑場跡で必ず見かける”南無妙法蓮華経”のお題目の巨大石塔など残されております。
庄司甚右衛門が開いた鈴が森の茶屋は慶長5年(関が原)ですから51年後の慶安5年(1651)に刑場が開設されます。三代将軍家光が没し四代家綱11歳が将軍になった年です。
この年は幕府転覆の陰謀が発覚した由井正雪の乱で丸橋忠弥が捕り方に召し取られますが既に捕り物で殺されておりました。 ところが鈴が森刑場の磔第一号が丸橋忠弥なのです。 えゝ…死んでいるのに? 恐らく当時から罪人処刑は生死に係わらず作法通り執行したのでしょう。 その216年後、幕府崩壊の年慶応三年に仙台藩士が目撃した記述にも、既に牢死した罪人を塩漬にして鈴が森に移送して磔刑にする様子の一部始終があります。 幕府は寛保2年(1742)には”公事方御定書”を制定し、刑法、執行細則など文書化しており多分作法として書かれた規則を役人が厳守執行していたのでしょう。
以下の記述は既にブログ『お仕置き御用という仕事』と重複紹介する部分ですが、鈴が森の実態には欠かせませんので悪しからずお願いします。

磔刑柱の石台
この話は日本橋際高札場跡の向かい側の罪人晒し場(現在交番付近)から始まります。史料徳川幕府の制度 小野 清 校注 高柳金芳 人物往来社 徳川幕府磔刑を目撃せし者は、恐らくは今日存在せざらん。よってこれらの事蹟を研究せらるる史家の参考のために、顛末を記載すること左の如し。慶応三年(1867)冬、某日午後、予散歩して日本橋に至りしに、たまたま橋の南東方の空き地に、二個の大甕に塩漬けにしたる罪人晒物あり。……側の木製の捨札(罪状書)には奉公人が主人を襲い重傷を負わせ捕らえられ獄中死した犯人の罪とは、、主人殺しの重罪に等しく”御定書第六十九条” 人殺し並びに疵付けし等御仕置の事。
一、主殺し二日晒し、一日引廻し鋸引の上磔、同じく手負と為し候もの晒の上磔。と御定書から断罪宣言したものです。 翌朝八時出発のお仕置きの行列は先頭に捨て札を担いだ非人、次には白衣帯刀の矢の者(穢多)二人が槍を掲げ更に大甕を棒で宿駕籠のように担ぐ二人(替共4人)の非人、続いて掛役人は脚絆ばき、帯刀羽織着用で挟箱二つ、と因獄付同心などおよそ十人の行列ですが、生きた罪人の場合は裸馬に乗せ、総勢五十人くらいで鈴が森刑場に到着しますと、大仏殿の堂守は大束の線香に火を点じ、鉦を叩き題目を唱え、白日蕭蕭、風物惨澹……。
場内に入り紋付羽織、仙台平の袴で身を正す検視役人二人は挟み箱に腰掛けると非人は大甕を石で打ち砕き塩漬の罪人を……引き出して検使の前に跪座(きざ)せしむれば、四十歳位の検使は、懐中より奉書紙に認めたる捨札同文の断獄宣言書を出して、罪人に読み聞かしむ。この検使は、因獄主管者石出帯刀なりしや否や、当時聞くところなし。 かかる間に他の非人は、叢(くさむら)の中に倒し置きたる磔柱を刑場の中央に引き出し、罪人に覆面し、大の字状に縛り終わり、罪人を海岸(東方)に向わしめてこれを樹つ。 槍を取る者(即ち突手)二人、荒縄の襷を十文字に掛けて、罪人の左右に分かれ、各々槍の穂より三尺ばかり下の所を荒縄にて縛す。蓋し血の手元に流れ来るを防ぎ止むる用意なり。
一人の非人は磔柱の下に水を入れたる桶を据え、雑巾様の襤褸(ぼろ)切れを持ちて蹲(うずくまる)。これ罪人を突きたる槍に付着せる血を一度ごとに拭い去る者なり。
かくの如く準備なり、槍を持ちたる突き手両人、罪人の右方の者は西向きに、左方の者は東向きに、各々位置を定めて、まず左右両方より、槍を出して、罪人の胸の前にて、叉字状に合して、ドンと胸を打つ。斯くして左方の者、まず「アーリャー、リャー」と掛け声を発しながら、罪人の横腹より右の肩へ通れとばかりに突き込む。その声音の無情なる、挙動の劣悪なる、何に譬(たとえ)ん様もなし。
この時、予思えらく、これ実に人非人なりと。さてその槍を引き抜きて、磔柱下にて血を拭わしむる間に、右方の者、また「アーリャー、リャー」と掛け声を発しながら横腹より左の肩へ通れとばかりに突き込む。その槍を引けば、左方の者また替りて突く。
かくの如く交(か)わる交わる突くこと、左右各々八本ずつ、合わせて十六本突き終りて、十七本目に、別に一人の非人をして、後ろの方より、熊手様のものを以て、髷(たぶさ、もとどり)に引っ掛けて首を仰向かしめて、突手の一人真正面より咽喉を突きて止めを刺す。……

鈴が森刑場では慶安四年から明治四年閉鎖までの220年間に10万人〜20万人が処刑され、平井権八天一坊、八百屋お七白木屋お駒など歌舞伎、講釈など演芸を賑わせた人たちが断罪された場所としても知られますが、詳しい記録は殆どなく、更に明治の閉鎖後から現在にいたる過程、出来事などの記録の存在すら定かでありません。……次回へつづく…  

東海道品川宿

(6) 品川神社と東京サウスゲート計画の進捗
(5) 南北の天王さま 荏原神社、品川神社
(4) 東海禅寺 禁中並公家法度の断罪沢庵和尚
(3) 海晏寺 岩倉具視の危い塋域
(2) 歴史回顧のできる場所
(1) 鈴ケ森刑場と大森海岸