[寺社]  東海道品川宿(6-5) 南北の天王さま 荏原神社、品川神社。

大井から旧東海道品川宿を歩きましたが、街道筋は雑然とした昔の面影を残す商店街が続きますが、街道の山側へは無数の路地が残り、奥にはお寺があり懐かしげな民家の雰囲気も楽しめます。 時間をかけて路地を出たり入ったりするのが、品川宿散策のコツかも知れません。……さて、古くから美しい日本に住む人々の心には山川草木、森羅万象を畏敬し手を合わせ感謝する気持ちだけは自然に持ち合わせております。 私といえども水平線を焦がす日出、日没、降る星空、天を突く巨木、垂れ下がる黄金の稲穂など諸々に感動する心にさせられ、そこに宿る日本の神様の真の姿、土俗的な原点と考えております。
…この歳になっても現代の宗教信仰には無縁、金にも無縁で、どちらか一つくらいは在っても良いのでは?、と今更ながら来し方を振り返ると寝付けない夜など御座いますが、お日さまが昇れば元の木阿弥アッケラカン人生に戻っております。……
今回の旧東海道品川宿近辺を歩行徘徊中、品川神社荏原神社の御祭礼、天王祭の準備で街は活気に溢れており、品川宿の南北の神社を何故天王さまと云うのか?、なにはともあれ両神社の御出自を勝手に探求する事にいたしました。
…勝手ながら各ロケーションはWEB 地図などでお調べください。…
     
            
荏原神社から始めます。 近代の社名の変遷は江戸時代は天王社です。 明治新政府の改名強制で貴船社と改名、更に明治8年に東京城南地区名「荏原」をとり、荏原神社に定着しました。
先ず、天王社のいわれは宝治元年(1274)京都祇園神社(八坂神社)から牛頭天王を勧請したのが理由です。 
そもそも荏原神社の御創建は、更に遠く古く、和銅2年(709)に奈良県吉野郡(現)にある丹生川上神社の水神を勧請したと云われます。
丹生川(にうがわ。現、吉野川)の川筋は湧水が処々にあり古代からの水神は地主神、丹生川上神として崇められて来ますが、700年以降になり朝廷の覇権が成り、古事記日本書紀が完成すると朝廷の宗教支配が始り
主に水神には紀記神から高龗神(たかおかみのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)を宛てているのです。 結果、丹生川上神社として、延長5年(927)の延喜式神名帳に記載され、朝廷の支配下官社に組み込まれました。
現在の荏原神社主祭神は以上の理由により高龗神(たかおかみのかみ)になっております。 また、丹生川上神社は上社、中社、下社と三社あり何れも水神さまで、上社の旧遷座宮ノ平遺跡からは縄文時代ストーンサークル遺構(祈願の場所、建物などは無く神社の原点)が発掘されているのです。
古代の人々が山を拝み、水を拝み、太陽を拝んでいた、名も無い神々の水神様、丹生川上神が700年代に政治的創作の神話の高龗神(たかおかみのかみ)に転化させられました。
また、明治初めに品川貴船社と呼ばれた理由は明治の神仏習合禁止令により天王社を名乗れない荏原神社が、同じく高龗神主祭神とする京都市鞍馬(現)にある貴船神社総本社の社名に一時改名したのでしょう。
地名として残る品川天王州は天王社の前浜、品川沖の州としての呼び名ですが、神社の由緒ではこの州から牛頭天王のお面が見付られたお話があり、水の神さまとして祭礼では神輿の御神面海中渡御が行われています。 天王州の現状は海の埋め立てにより地名は品川2丁目天王州、天王州アイルなどと呼ばれて高層ビルが林立する市街地となりました。 
と云う事で荏原神社の始まりは名も無き水神さまの土俗神、中近世に入り疫病は人々の最大の脅威となり、牛頭天王を八坂神社から勧請して町方信仰の人気神様になります。水神さまは、さて置いて700年余り天王社を名乗り、現代も天王祭りで街が活性化している所以です。 …その土地の郷土色、出自歴史を大切にした神社再興が地域の活性化に繋がる事例は多数在り、有名な京都祇園祭りなどが在ります。 
薩長の経営した明治新政府の神国政策、廃仏毀釈と各神社の祭神と神社名の強制改名が文化破戒を招来させ地域民俗色を失わせた元凶といえます。
因みに私の住む埼玉には、エエエ…と驚く神社が諸所にあるのです。その神社名は「女体神社」、「女帝神社」などです。小さな氏神並のお社でひっそりと残されており、ここでも祭神を記紀神(神話)に改名させられたのか、最早その出自を解明出来ませんでした。 なお「氷川女体神社」は多少知る人も居る筈です。……次回へつづく…  ……前回へ戻る…  

東海道品川宿

(6) 品川神社と東京サウスゲート計画の進捗
(5) 南北の天王さま 荏原神社、品川神社
(4) 東海禅寺 禁中並公家法度の断罪沢庵和尚
(3) 海晏寺 岩倉具視の危い塋域
(2) 歴史回顧のできる場所
(1) 鈴ケ森刑場と大森海岸