[天災][地域] 東京都市災害(1)−6 東京災害と空襲

日毎に悪化する福島第一原発は、何処ぞの大学から出てきた御用学者さんの人体安全論と裏腹に深刻度をましております。 特に海水汚染の現状は看過できない状況になって居り水産業はもとより外航船舶の日本出港船舶の外国入港拒否の例も聞き及んでおります。政治資質のない風任せ国家指導者の辞任を条件に大連立政権でも結構、困難に立ち向かえる政治家を迎えるのが日本凋落の歯止めになるのではないでしょうか!原発事故直後によくも言ったり、『…僕はものすごく原子力に強いんだ…』と、身を飾り厚顔なこの宰相は事故直後の初動作業を遅らせた元凶とも云われております。!…… 
さて、江戸時代世界第一の大火と云われる振袖火事(明暦大火)で約10万人の犠牲者を出し、その後もお江戸の名物として頻繁に大火災の災害が続きます。維新後は実に10万5千人が亡くなる関東大震災を経て昭和に入ると戦争災害の東京大空襲が約10万人の犠牲を強いられました。 近代都市東京といえども二次災害としての大火は現在も大きな課題が残されております。
予断を許さない首都圏の大地震の二次災害を一般常識的にシュミレートしてみても運河河川を網の目の様に構築された防潮堤の決壊は確実で東京東部0メートル地帯と云われる地域の浸水は逃れるすべもなくライフラインを失った高層ビルが満潮期の海水の中に佇む状況が予想されます。下町各区の密集住宅街と山の手と言われた杉並区を初めとした地域の密集家屋火災の危惧は神戸大地震の例からも大きいものがあります。
今から66年前の東京大空襲の実体を知る方も少なくなり大火災の体験も語り草となってしまいました。 私が体験した空襲と都市火災のもたらした状況を書いてみようと思います。……
     
銀座4丁目 服部ビル 銀座三越

昭和20年3月10日は本所、深川地区に大空襲で最大の火災被害のあった日です。 象徴的に東京大空襲と云われこの災害の”真実の写真”を多数残してくれた方がおります。当時の警視庁カメラマン石川陽三氏です。 戦時下軍部や占領アメリカ軍のジェノサイト隠蔽圧力から守り抜き、公開された画像は東京大空襲の象徴的記録と云われております。
前年の昭和十九年(1944)の後半からサイパン発進のB29戦略爆撃機と戦闘機P51や艦載機のグラマンの昼間空襲で爆弾と機銃掃射により東京近辺の軍施設や軍需工場が標的になります。年が明けると東京都心部の爆弾攻撃で有楽町銀座一帯も甚大な被害を被り、二月に入ると夜毎の空襲は焼夷弾による焦土作戦に変化し、この過程では本所深川地区、山手地区を残して東京一帯は焼け跡と化してゆくのです。
     


夜間空襲が激しくなってからは昼間は紺碧の上空遥か高度を飛行機雲を引きながら米軍偵察機が毎日のように飛来しており、時には伝単と称する”ビラ”がヒラヒラと舞い下りてきました。最早日本は帝都東京の制空権すら無かったのです。
対空砲は高高度には届かず、迎撃機は6,7千m以上の酸素希薄空域に迎撃態勢での飛上は不可能と云われ、エンジンに過給機(空気、燃料の圧縮装置)の無い悲しさ、更には茨城県の日立の工場群にはアメリカ戦艦、巡洋艦が出現し艦砲射撃を加えます。また空襲帰途の不時着B29乗員救助の為に”天皇のバスタブ”と呼ばれた東京湾内にさえアメリカ潜水艦が浮上遊弋していたとは。
ここに至り、神国日本の精神主義は神風到来をひたすら待つのみ、一方アメリカは戦略、戦術に科学的学問的とさえ云える合理主義と物量投入で挑みます。 この時点ですでに、東京大空襲と全国地方都市に及ぶ空襲被害と広島、長崎の原爆投下は十分予測出来たと云えるのです。空襲情報は各地区にあるサイレンで知らされ、更に敵機接近情報はJOAK(NHK)の放送があります。 ブザー音に続いて『東部軍管区情報…敵B29数目標南方洋上を北上中、警戒を要す。関東地区警戒警報発令』とラジオが知らせます。
既に航空機、艦船にまで高性能レーダー(UHF…マイクロウエーブ)装備のあるアメリカにくらべ我が方はラジオロケーターと称する大雑把な地上アンテナで大目標の編隊進入を探知するのが精一杯で、エレクトロニクスでも格段の差があったのです。私の住居世田谷上空は都心部夜間空襲B29の侵入コースの一部なのか一機づつ、探照灯でリレイ式に補足される青白い光芒の中を飛行する敵機を夜毎見上げるばかりでした。
遂に東京大空襲の象徴的な被害、三月十日の本所深川地区の空襲では北東の夜空を真っ赤に焦し何時もの赤光に比べ容易ならない事態を告げておりB29爆撃機325機の来襲でした。
翌日親戚の安否の確認に出発しますが、小田急線、中央線経由で東京駅に到着、門前仲町への都電は不通で焼け跡の異臭でただならぬ永代通りを歩くのですが、永代橋を渡りきると一望の焼け野原で見慣れた街は消滅し道路を頼りに辛うじて門前仲町交差点に着きますが散乱する犠牲者の遺体は黒く炭化してその形から人と判断する状態です。
当時三階建てのビルで大きな洋品店扇屋の焼けビル路上にも4,5体、大横川の巴橋際の防空壕から4、5体が路上に横たわり最悪の状況を呈しておりました。大横川を渡ると東京市立深川病院という3、4棟の大病院は全焼、避難者が多数犠牲になっておりますが、その手前の空き地で目撃した光景はお母さんが幼児を抱え座っており、なぜか衣服など全く焼けもせず、子供を庇う姿の犠牲者には愕然としました。
目的の親戚の家は跡形もなくただ見覚えのある路地からの判断です。
さらに古石場川の橋の手前で遭遇した光景はまさに激戦地の戦場も斯くやと! 炭化した無数の遺体が道をふさぎ、橋を渡るのには遺体の隙間を歩くしかなく、もはや無惨さに目を背けては通れません。
後で聞いた話ですが火炎に追われた避難者が、まだ火の回らない場所へ逃れ集まりますが、行く手の火炎で退路を絶たれ集団的に焼死した様です。当日帰宅しますと罹災した親戚三家族が避難しており、5人が行方不明となり、家族は必至でしたが、焼死遺体の状態から判別は困難で結局最後まで見つかりませんでした。犠牲者は二家族で母親と幼女、母親と少年と姉、少年は私と同年代で学童疎開から両親の許に戻り間もなくでした。
その後焼け跡整理手伝いで4,5回深川に行きましたが、その都度、犠牲者の悲惨さを目撃します。川に逃れた犠牲者は焼死者とは異なり更に強烈な状態を呈し、時間経過で発見される遺体は流失しないよう針金で岸に繋がれ浮いていたのです。 路上の焼死者収容も遅々として進まず放置されておりました。この間に目撃した事で、忘れられない光景の一つは深川不動尊の本堂焼跡脇の広場に焼死者遺体を無雑作に山積みして在った事です。
お寺さんですから集めた遺体の収容場所かと思っておりました。が、 最近不動尊をお参りして、玉垣、灯明台、石畳など昔と変わらぬ雰囲気も残り有難い事と安心し、更に八幡様に詣り御由緒を調べますと、空襲直後の昭和20年3月18日、昭和天皇が本所、深川の戦災視察の途次、八幡境内に行幸をされた記述があり!…ひょっとしたら…不動尊境内の光景と繋がりが在るのではと考えたのです。畏くも天皇陛下にお見苦しいものをお見せしない?!……と何時もの”あれ”ではないか?…
     
深川八幡境内陸海軍統帥権昭和天皇の視察
空襲報道と天皇-「日本ニユース」第248号を巡って 川村健一郎著
 ……とくに死体処理については、死体が放置されていると戦意の低下につながるという配慮から、三月十日の午後には着手されたが、空襲下で救護活動にあたっていた久保田重則の回想によれば、あまりにもおびただしい数のために……「あらゆる機関を動員しておこなわれた」。巡幸路は「昼夜兼行」で優先的に死体をとりのぞかれ、「三月十七日の夜までかかって、天皇の目につくところだけは、なんとか片づけた」という。……不動尊八幡宮周辺は昔から深川公園(旧永代寺境内)という平坦で広大な土地があるのです、ましてや取り扱の難い炭化した遺体を階段上の石の玉垣を巡らした場所に運び込むのは不自然です。やはり、天皇の目から空襲の真実!犠牲者の遺体を隠蔽したとしか思えません。!
私が少年期暮らした深川回想の記事の必然的な帰結が今回の話になりますが、更に究極な運命に苛まれ一夜にして命を失った十万人余りの人々の存在は決して忘れる事の出来ない事実です。
敗戦後、甚大な戦争被害、悲劇の中で途方にくれる人々に新聞のキャンペーンは《一億総懺悔》でした。 儚い命だった幼児から母親の背中の赤ちゃん、老若男女の犠牲者も”懺悔”しなくては成らなかったのでしょうか?当時の戦争扇動者の新聞の実体の露呈なのでしょう。
敗戦以前の日本統治の経過は半世紀をゆうに過ぎ、現代史として記録される時期かと思いますが真実は隠蔽され闇の状態です。薩長覇権の明治維新以来、天皇を前面に掲げ、その陰に身を隠して蠢いた為政者の存在があります。また、御用を務めた学者先生は、ご要望如何様にも歴史を改ざん創作する職人さんです。敗戦前の文部省教科書には多数の作品が書かれておりました。
…… せめて徳川時代並みの歴史解明が出来ないものかと思うのですが。 ……次へ続く…  

《東京都市災害》
(6) 日本堤はお江戸の防災拠点
(5) 荒川大規模水害東京地区の想定データ
(4) 東京大洪水と荒川、隅田川
(3) 海中都市東京
(2) 江戸東京の災害
(1) 東京災害と空襲