[風俗][歴史]  消え去った職業 (2)−7 公娼、私娼

日本から消え去った職業を見てみますと、女ならでは究極の稼業に公娼と呼ばれた遊郭の従業婦、戦後は私娼の類で赤線青線従業婦です。 一方、究極男ならではと考えられていた外航船舶の船員、遠洋漁業船員も壊滅の瀬戸際にあります、その経過を追跡してみました。
先ずは女性側から。
江戸時代、内藤新宿遊郭で起こった遊女”白糸”の悲話が語り継がれ上州”八木節”で囃し唄われております。……
《花のお江戸の、そのかたわらに、聞くもめずらし心中話、ところ四谷の新宿町の、紺の暖簾に桔梗の紋よ、音に聞こえし橋本屋とて、あまた女郎衆の、あるその中で、御職女郎しゅで白糸こそは、愛嬌よければ皆人様が、われもわれもと名指しで上がる、分けてお客はどなたと問えば、春は花咲く青山辺の、鈴木主水と云うさむらいが、女房持ちにて二人の子供、二人子供のあるその中で、今日も明日もと女郎買いばかり………》 相当長い口説きですので初めの部分だけにします。
    

吉原遊郭明治5年(1872)

人類の歴史上、売買春が経済活動の始まりと云われます!。江戸時代の話は落語好きには廓噺などから遊郭の雰囲気、遣り手婆、妓夫、遊女と客のやり取り、楼主や人身売買の証文の存在など手に獲るように分りますが、明治新政府誕生以来、敗戦により占領軍司令官マッカーサー元帥の公娼制度(遊郭)廃止命令以後、売春禁止法案成立過程までを探ってみましょう。
時は明治5年(1872)荒天で破損した船体修理に横浜入港のペルー船籍「マリアルス号」が上海から清国人苦力(クーリー)231名を運ぶ奴隷船である事が発覚しイギリス公使の要請を受けて日本政府が救出しますが、裁判過程でペルー側から日本国内で公然と行われる娼妓の人身売買を証拠物件と共に指摘され、あまつさえ日本政府には奴隷解放を説く資格全くなしと非難され国家の面目を大いに損なう一件がありました。 
慌てた明治新政府は同年人身売買禁止令を布告し更に娼妓の自由廃業を認める法令が成立します。ところがその後、楼主による廃業娼妓への前借金請求訴訟では娼妓稼業と前借金は別の次元として娼妓に借金返済義務を大審院最高裁)判決で認めたのです、結果は身代金を前借金とする灰色の記載が可能となりました。 公娼制度と人身売買は多少の推移変動が在ったとしても、実質は江戸時代の延長線上で敗戦まで存在した事になります。
さて、明治以後、遊郭とお女郎さんに係った有名人では、第一番は坪内逍遥でしょう。セン夫人に関しては先刻ご承知の方も多いと思いますが根津遊郭、大八幡楼の娼妓”花紫”で東京帝国大学の学生逍遥が数年間通いつめて明治十九年に身請けして正式に結婚しております。 逍遥自身相当な意思と思慮によるもので、其の後名声に伴う教育学問上の公職、地位就任要請を辞退し、セン夫人との安寧な生活を生涯に亘り守り続けました。なお実子はありません。
次はやはり永井荷風さんです。 彼は高等師範付属中学校卒業の18歳で既に吉原遊郭に遊んでおり、二十歳では登楼居続けの境地でした。断腸亭日乗昭和20年3月7日記の述懐……二十(はたち)のころより吉原通ひを覚へ通だの意気だのといふ事に浮身をやつすようになり、居続けの朝も午近く、女の半纏を借りて寝巻きの上に引掛け、われこそ天下一の色男と言はぬばかりの顔して京町二丁目裏の黒助湯といふに行きしこそ思返せばこれ洗湯に入りし初めなるべけれ。
吉原よりの朝がへりには池の端の揚出し三橋の忍川などといふ料理屋にて湯豆腐の煮ゆる間に一風呂あびて昨夜の移香を洗ひ流しぬ
。……
破戒僧の如き大僧上今東光さんは著書「吉原哀歓」”嫖客”で、……
……京町の一丁目から二丁目と両側を覗きながら、大きな声で文学論にもつかない話をして歩いて、たしか角町へさしかかった時、一軒の妓楼の玄関先で一人の女郎と話をしている男。頭の毛は洋画家かルンペンそっくりの調髪で、手にマンドリンをひっさげ、いささか酩酊の体たらくでふらふらしながら妓に支えられ得ている格好は、どうも見覚えがあるので立ち止まった。………「や。ハチローじゃねえか」
「あれっ」
サトウ.ハチローは大袈裟な身振りをすると、
「とんだところに北村大膳」
河内山宗俊の科白で誤魔化す算段か。
「いよオ。先生方」
と傍の妓夫太郎(ぎゅうたろう)は急に手揉みをしながら僕らに近づいて来た。
「どうでげす。口開けでござんすから四の五の仰有(おっしゃ)らずにとんとんと威勢よくお上んなすっておくんなせえ。好い妓がお待ちして居りますんで。へえ、それに初見世の妓、それが頗る優物でげして」……
……吾々三人は幅の広い梯子段をとんとんと音立てて上がり、大広間に通された。入って来た遣り手婆はハチローを見ると、
「あら。まあ、ハッチャン。番頭が通したのかい」
いささか刺(とげ)のある声で咎めるような口調で言った。
「あ。通してくれたよ」
「変だねえ」
普九さんはこの会話を聞いて、
「おい。小母さん。此奴に何かいちゃもんをつける気かえ。若しそうだったら俺達二人の顔は丸潰れってもんだ。なあ、そうじゃねえか」
「そうだとも。訳を聞かせてお貰え申してえな」
と僕はわざと馬鹿丁寧に言うと、遣り手婆はぎょっとして、
「ハッチャン言いなよ」
と言った。ハチローは、
「この楼の高丸てえ花魁が僕の深間(ふかま)なんだ。どっちも無理して会ったんで借金がたまってね。僕は「オハキモノ」にされたの」
「ふええ」
と叫ぶように言うと普九さんは後ろへそっくり返った。
「へえ、近頃にねえ粋な話を聞くじゃねえか。俺なんぞも女郎の間夫(まぶ)になって”オハキモノ”にされ、忍び会うてな目に一生に一度でもいいから会いてえと思ってるのに、唯の一度もねえや。それにしても大(てえ)した色男だな。俺達の中からこんな二枚目が現れるとはな」
「ふん。”オハキモノ”って言うのはね。御内緒からお客にしちゃあならねえと言われて、お断りするんですよ。お女郎買いに来て”オハキモノ”ってのは恥なんですよ」
「ふうん。女郎屋の親父やお内儀てえのは薄情なもんだって聞いたが、この楼(うち)もそれだな。客からさんざん搾っておきながら、もう金が出そうもねえと見ると”オハキモノ”と来らあ。それじゃまるで追い剥ぎか強盗みてえななものだな。ああ桑原、桑原。おい、俺達も身ぐるみ剥がれる前に三十六計逃ぐるに如かずだぜ」
と毒舌を吐くと、遣り手婆は真っ赤になって、………

戦前の社会では女性職業は確立されて居らず、就業機会は旧態依然として風俗、花柳界など性的サービス業にほぼ集約された実情が在ったと思います。 この実態は普遍化して学生労働者から上流層まで遊郭、私娼窟、花柳界、お妾さん等を身近な存在として受け入れ馴染んで居たのでしょう。 
私の少年時代とは言え住まった深川、四谷、世田谷などで近所にはお妾さんなども住み、隣人として特別異端の存在ではありませんでした。
また、文化的?、影響も在ったかもしれません? 二代水戸藩水戸黄門さんの遊郭遊びは老齢に入っても止む事なく家来を嘆かせ、伊達騒動を起こした仙台藩主の伊達綱宗と花魁高尾との騒動に始り、暇な殿様などの遊郭通い、紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂平の吉原遊びの逸話、歌舞伎、落語などは吉原噺は十八番の演題で世人を楽しませていたわけで、骨絡みな影響が無視できません。 ま、結果論として無条件降伏の鉄槌が下り、先進異文化の思想導入が婦人差別の撤廃など日本人の再生に貢献して曲がりなりにも民主主義国で通用するようになったのでしょう。 
次回からは戦後に入り赤線、青線、街娼、パンパンガール、オンリーさんと売買春の実態話になります。 なお、警察と売春関係の深い誼は古くからで、これも明治政府の体面上、売春管理監督を地方行政機関、警察に移管され、戦後体制の赤線、青線も警察主導の管理上から派生した用語です。……次へ続く… ……前に戻る…  

《消えた職業》
(7) 製造業の現況は          
(6) 製造業の辿る道は
(5) 新宿風俗トライアングル 昭和2,30年
(4) 占領米軍時代と青線etc
(3) 赤線青線、パンパン、オンリー、洋パン嬢
(2) 公娼、私娼
(1) 現代