[敗戦][風俗]  消え去った職業 (3)−7 赤線青線、パンパン、オンリー、洋パン嬢

占領軍命令により江戸以来の遊郭(公娼)は、禁止されましたが、売春に対する規制は有りません。 これを受け旧遊郭楼主達は資力、ノーハウを利用して遊郭跡に私娼街を作り上げ、警察の基準(建物形態設備)と指導監督のもと遊郭の受け皿を誕生させます。名称の特殊飲食店、赤線とはこのスタイルの私娼街を警察地図上に赤線をもって表示した事から始った用語です。
これに対する青線とは飲み屋小料理屋その他から自然発生、成立の私娼街を青線表記したもので警察の基準指導などはなく雑然とした一画を形成しております。 それでは警察は売春を奨励しているのか? とお聞きすれば、いわく……世の中は自由主義の時代になりました。客と店の女性の恋愛は自由です、店主はこのカップルに恋愛の場所を提供する、客は女性に愛のプレゼントにお金を渡す、と云う仕組みだそうです。

船橋遊郭の妓楼の廃屋…消滅
先ず、特殊飲食店こと赤線が新宿遊郭跡に出現した通称”新宿二丁目”の様子から、…この二丁目遊郭街は空襲で消滅しましたが、そこはそれ財力も充分な元遊郭楼主は当時の警視庁企画指導の赤線モデルこと特殊飲食店の基準様式に従い、外観色タイル張り、展開窓と洋式ドアーを備え一階内部はカウンターに洋酒壜が飾られたホールと、画一的な大店を建築し私娼街として復興させました。女性の接待は畳敷きの小部屋ですが、当時は瀟洒なオールタイル張りの浴室もあります。ま、女性と馴染みは別として、多様な女性との接触を好むお方は商売が忙しい時とか、女性の性格などその時々で色々な対応は仕方のない世界でした。 この豪華な街並みは新宿と云えば二丁目、二丁目と云えば新宿と象徴的な場所となったのです。
当時は多くの男性が興味を持っていたように見えましたが、……なにを云うか真人間はそんな処には行く筈が無い…、私としたことが恥ずべき独断を御許し頂いて、
ここで俄然思い出したのが、この夢の街?に突然異変が起こりました。 靖国通りと交差する大通りに面して目隠し板が歩道に沿って延々と建てられますが、この異様な光景は現在の新宿二丁目交番の在る一帯です。
噂によれば、尊きお方様が車で通過するコースになったとか。 はっきり言えば今の天皇が皇太子の時、青山の東宮御所から目白の学習院大学に通学する車列の通行路になったと聞きました。
綺麗なお姉さんとピカピカのお店を毎日お見せするのは、目の衛生に良くないと医師の所見なのか! 先生、如何なものでしょう? 昭和三十年前後の話です。

旧洲崎パラダイスに残る赤線の建物
Next:  東京帝国大学裏の根津遊郭が移転したのが深川洲崎遊郭です。この町の推移は… 明治21年(1888)根津遊郭が移転後の街の様子は新聞連載小説、挿絵画家で有名な木村荘八著、東京繁昌記(昭和十四年十一月誌)の中(新撰東京名所)を再引用させて頂きました。
東京繁昌記 木村荘八著  岩波文庫より。
『洲崎遊郭は洲崎弁天町の全域を有し、別に一廓を成し、新吉原に擬したるものにして海に臨むを以ってその風景はかえって勝れりとす……洲崎橋を渡りて廓内に入れば直接の大路ありて海岸に達す。 左右両畔には桜樹を植え、……海岸の防波堤は石垣とコンクリートを以って築きたるものにして明治三十一年五月成。……青楼綺閣縦横に連なり、遊客の登るに任す。
その中最も大なるは八幡楼(大八幡という)にて楼前に庭あり。蟠松(はんしょう)に松竹梅を配して風趣を添えたるが如き新吉原に見ざる所なり。 その他新八幡楼、甲子楼、本金楼等は廓中屈指のものなり。 夜着の袖より安房上総を望み得る奇景に至っては、実に東京市中にありては本遊郭の特色なり。
』(新東京名所 東陽堂版 明治四十二年)
読み難い文章なのですが大体の輪郭は想像できると思います。文中の妓楼の名はすべて根津遊郭の大見世です、なかでも大八幡楼は根津の時代、文豪坪内逍遥の人生に深く関わった娼妓”花紫”が居た見世です。また本金楼(本金邑楼 ほんかねむら)は現在、街の中央にあるホテル東陽の場所になります。
永代通り洲崎橋交差点を南へ30m程で小高い元洲崎橋跡の先、広い中通りを中心に洲崎遊郭は碁盤の目のように街が形成されておりました。
当地も敗戦直前昭和二十年三月の大空襲で焼滅し、戦後は洲崎橋から左、道路の東側が特殊飲食店街いわゆる赤線地帯その名も”洲崎パラダイス”として復活し昭和三十二年の売春禁止法施行までは商売をしておりました。
特に、この広い東京でも元赤線の建物がほぼ原型を留め残るのは洲崎以外にはありません。戦後一時代の貴重な証言者なのです。 
この一帯の往時の店は確りした物が多く残り、アパートや住居として、きれいに改装し利用するものが恐らく三分の一以上は在るのではないでしょうか。見極めるには、 ①多少ともタイルが張り付いている。 ②玄関が二ヶ所以上在ったと思われる。 ③小部屋が多い。 ④看板建築。などの特徴が目安ですが更に店の構造を知れば理解ができると思います。
特殊飲食店は形式上一階にはホールがありカウンターと洋酒壜などが一応飾られており、一番重要な女性達が店頭に立ちお客を誘うスペースとして複数以上の入り口が商売効率上、即ち何人もの女性が同時に客と交渉、誘いをする必要があって作られました。
遊郭の頃との違いは妓夫(ぎゅう、客引き番頭)や”やりて婆”は省略されておりました。女性の客への接待など微妙なお話は少なくとも76,7歳以上になる昔の不良でも探せばご存知かも知れません!
なお、蛇足になりますが特殊飲食店とは売春認可の苦肉の方策として警察が新たに考えた基準形式で、公娼制度(遊郭)の代替に当たります。丁度、現代の警察管掌下の大衆娯楽パチンコ店の立場と対比出来ると思えます。
赤線こと特殊飲食店の話は2地域をピックアップいたしましたが、次回は戦後風俗史の核心青線などになります。。……次へ続く… ……前に戻る

《消えた職業》
(7) 製造業の現況は          
(6) 製造業の辿る道は
(5) 新宿風俗トライアングル 昭和2,30年
(4) 占領米軍時代と青線etc
(3) 赤線青線、パンパン、オンリー、洋パン嬢
(2) 公娼、私娼
(1) 現代