[人物] 明治と維新の時代(6)−6 近藤勇終焉板橋宿始末

JR埼京線板橋駅東口前広場の向かい側には新撰組近藤勇土方歳三永倉新八の巨大石碑の墓が祀られております。 この一帯は板橋宿の下宿(平尾宿)の外れで近藤勇終焉の地…新政府軍に処刑された地域になります。 ちょっと気になったのは江戸帰還後、局長と自ら袂を分かった筈の永倉新八の発起で祀られた石碑だそうです。?……近藤勇と言えば幕末のヒーローで熱心なフアンも多数おります。 壬生浪士組から新撰組へ変身して京都洛中での活躍、特に池田屋事件など衆人の知るところでしょう。 

歴史スパンは、さして昔とは云えない近代の出来事ですが、色々な有名小説家さんのお力で楽しい時代劇物語になっております。 
京都以後江戸板橋宿での終焉にいたる経緯は複雑でもあり、士道の誠に徹した男に相応しい最後であったとは伝聞されていない様に思はれるのです。 気になる江戸板橋宿始末に至る道程を追跡してみました。…彼のイメージの延長線上のお話、武士道の倫理を守った男が農民出身の俄か幕臣、、、二心を持ち脱藩脱走謀略殺人放火、何でもありの、武士道倫理の対極者が元武士の明治新政府の面々とは社会の皮肉です。
孝明天皇の急死により明治幼帝が薩長の手中に帰して、将軍慶喜は追い詰められ、大政奉還のかいも無く鳥羽伏見の戦闘で敗退するのです。 この激戦で新撰組は満身創痍で大阪城に撤収すると、すでに徳川慶喜は夜陰に乗じ軍艦開陽で江戸に逃亡し、哀れ幕軍将士は置き去られます。
近藤勇はすでに狙撃を受けて重傷を負い、一方土方歳三は鳥羽伏見で指揮をとり共に慶応4年(1868)1月14日幕府軍艦で江戸に帰還しました。近藤は神田和泉橋の幕府医学所で弾丸摘出の手術を受け快方に向かいます。
慶応4年1月18日、敵前逃亡の主、徳川慶喜江戸城近藤勇土方歳三を拝謁し、近藤を老中に次ぐ重職若年寄と土方を直参旗本寄合席格に任じ、更に破格の徳川家功臣の姓、近藤には大久保(大和)、土方には内藤(隼人)を贈り、新撰組には江戸大名小路(丸の内)に屯所を与えております。
2月12日、すでに錦旗に怯えていた将軍慶喜は突如独断して上野寛永寺大慈院に蟄居謹慎し新政府に対し泰順、助命嘆願の書面を提出します。
3月1日、近藤は勝海舟の許可を得て甲陽鎮撫隊を結成し新政府東山道軍に将軍慶喜の泰順の意を伝え衝突排除を旨とし、甲府城に向け新撰組総数130名は出発しましたが、すでに甲府は新政府軍の手中にあり近藤の書状『新政府軍に泰順し抵抗の幕軍鎮撫すべく暫くの進軍御猶予云々』の書状は無視され3月6日武力で一蹴され再び江戸にむけ敗走するのです。
3月11日永倉新八原田左之助の有力隊士は神田医学所で近藤に会い会津藩を頼り抗戦すべく同意を求めるのですが、局長の逆鱗に触れ、激した新八は『長々お世話にあずかりありがたく存ずる』と袂を分かち去り行き新撰組分裂となりました。
3月14日、新政府軍の江戸城総攻撃が回避されると、現在の葛飾区綾瀬4丁目15 旧”五兵衛新田”金子左内家では縁者から15名程の逗留を依頼され引き受けます。…と、その夜近藤勇土方歳三ら40名が現れ以後またたく間に227名が屯集します。 滞在が長引くと新政府軍察知の疑念から近藤らは幕府御殿医師”松本良順”と協議します。
注)幕府御殿医松本良順は近藤勇新撰組に終始好意便宜を与えた人で重傷の近藤勇の弾丸摘出をした医者、幕臣。 浅草弾左衛門とも親交、差別賎称廃止の嘆願にも助力。新政府初代陸軍軍医総監、貴族院議員。
4月1日、夜、新撰組一行は流山に向け出発。近藤は大久保大和守剛、土方は内藤隼人正義豊と名乗り、流山の味噌醸造業長岡家に本陣、光明院など寺院に分宿し訓練を始めます。
4月3日、新政府東山道軍は粕壁(春日部)で流山に幕府残党集結を察知し包囲して武装解除と指揮者の同道を求めました。 大久保大和は越谷の東山軍本営に出頭したのですが、京都時代の近藤勇を見知っていた官軍隊員により密かに身分が暴露されてしまいます。
4月4日、近藤の身柄は板橋宿の新政府東山道総督府へ移送されて行きます。
ここで近藤勇確認は”駄目押し”決着となります。新政府軍隊士、加藤、清原の証言でした。 両名は新撰組を分派し薩摩藩と通じ寝返った一派、首領格伊藤甲子太郎に従った残党だったのです。 伊藤甲子太郎と、その他は京都で新撰組により誅殺されており、近藤は云わば彼らの敵でした。
一方土方歳三は近藤救出の為、4月4日上京し勝海舟幕臣大久保一翁大目付若年寄。五代東京府知事)を訪ね面談助力を懇願し、六名の新撰組隊士と共に宇都宮へと転戦してゆきました。
4月25日、山駕籠に乗せられた近藤勇は平尾宿外れの処刑場に運ばれ岡田藩横倉某の太刀取りで斬首されます。行年35歳。
私には勇名を馳せた新撰組局長近藤勇が戦わずして縛に付き処刑された経緯には釈然としないものが残っておりました。……
鳥羽伏見から帰還後、突然の将軍慶喜の泰順蟄居を界に、明らかに局長近藤勇の動静は以前の果敢な尚武の行動を画する様子が見えてまいります。  そのご編成された新撰組甲陽鎮撫隊とは幕府残党が官軍と争う事を鎮撫する意味なのだそうです。
しかし甲州では官軍に無視一蹴されて再び江戸に敗走し、五兵衛新田の再起から流山移転も江戸を追われた幕軍残党の屯す地域といわれ、しかも駐屯にあたり駿府田中藩陣屋の接収などもせずに商家、寺院などに留まり、接近する官軍に簡単に武装解除、出頭の同意など一連の淡白な行動は将軍慶喜の泰順の意に殉じる姿だったのか、流山での彼の処し方は謎としか思えません。
幕末乱世とは云え、二心”を持つて主君に仕え、恬(てん)として恥じる事のない武士の出現は、まさに現代的ではありますが、大久保大和の名で刑場の露と消えた近藤勇の生涯”誠”の旗を掲げ通した精神は古き倫理の残照でしかなかつたのか。?
唯一の盟友土方歳三は将軍拝領名の内藤隼人を、きっぱり捨て去り土方歳三に戻り函館戦争で果敢に散って行った姿は、彼の人物像に違わぬ納得がありました。
恐らく近藤勇の内なる葛藤は盟友土方歳三にさえ心境の吐露を憚ったと思えます。…至誠有為な多くの幕臣をもてあそぶ罪な男とは十五代将軍徳川慶喜でしょう。…もっぱら江戸城内大奥で徳川将軍家を売る男”二心公”と囁かれていた水戸烈公斉昭の七男七郎磨こと、慶喜でした。
なお、板橋駅前の近藤勇墓所は明治九年に旧新撰組脱退隊士永倉新八の発起でなされましたが、一際立派な新八の墓石の存在など建立に至る経緯は理解出来ませんでした。……前へ戻る

《明治と維新の時代》
(6) 近藤勇終焉板橋宿始末
(5) 疑惑の女官達(孝明天皇急死事件)
(4) 脆弱な歴史観《孝明天皇急死事件》
(3) 薩長新政府の文化破壊
(2) お仕置き御用という仕事 浅草弾左衛門
(1) 浅草弾左衛門