[事件事故] 明治と維新の時代(5)−6 疑惑の女官達(孝明天皇急死事件)

前回の続きです。 公家岩倉具視の朝廷追放の経緯、経過を解明してまいりましたが。 孝明天皇の突然の逝去に関しては、その状況から毒殺死か病気死かが大きな問題として、延えん今日まで論じられてまいりましたが、帝の急死直後からの岩倉具視の行動を調べますと、…明白に孝明天皇の意志に反して、追放公家の全員を復権させ、急進尊攘派公卿は息を吹き返し、更には祐宮(さちのみや、明治天皇)”13歳を手中にし、一挙に行動を起こします。…
最後の将軍 徳川慶喜 司馬遼太郎 文春文庫
……「幕府こそ朝敵である、それを討て」という勅諚なども、簡単につくりあげることができた。 げんに謀略家があらわれていた。 先帝に追放された前中将岩倉具視であり、具視と一心同体になって裏面工作をつづけた薩摩藩の大久保一造であった。 しかも慶喜がおそれたごとく、かれらは先帝没後、十カ月目に「薩長両藩主にくだす討幕の密勅」と云うものを岩倉の秘書玉松操(たままつみさお)が起草し、中山老公卿が幼帝の御手に御璽をもたせ捺印し、さらには大久保が西陣織の女の帯地をもって錦の御旗をつくらせ、極秘裏に討幕の最後的準備を完了した。……
では病床の孝明天皇絶命の核心経過に入ります。
ここでは話として、疱瘡療養中の孝明天皇に誰が砒素毒をお召し奉る事が出来る立場と、後宮女官と岩倉具視の関連メカニズムを解明してみます。
天皇の病臥される後宮(大奥)は女官によりお世話され、男はご治療する御典医のみです。 お薬の煎薬は一日三度「御匙」と呼ばれる御典医が別室にて調合奉り、「お差し」と呼ばれる下級の女官がお運びして、お部屋に侍る女官が天皇の御飲薬のお世話をします。御毒混入の機会は女官に絞られる事になるのでしょう。       
病状は御典医織部正伊良子光順の病床日記「天脈拝診日誌」が残され慶応2年12月12日疱瘡発病以来の御容態が記されております。 事件当日の12月25日の記載、
孝明天皇暗殺説を考える》中村彰彦著(オール読物)…

『二十五日』「この朝の拝診では少し御食欲が出られた/御回復と表役所へ申し上げてもいいくらいの御症状だが、今少し慎重を期して一両日後にしょう。 この報告を一時間でも十分でも早く誰もが希んでいたのだが」 天皇は二十五日にはほとんど平癒していた、というのである。 
ところが光順がほっとしてから数時間後、天皇の症状は激変した。
「突如! 奥から慌しく御差し(女官)の一人が光順等の控える御敷の間へ血相を変えて走りこみ、”お上が、お上が”とうわづった声で叫んだ」
寝所に走った光順たちの目撃した光景は、つぎのように描かれている。
{天皇は頑固な咳込みと共に吐血され御寝所の中で大変な御苦しみ様ではないか/(略)/側近女官衆は唯オロオロするばかり、間もなく天皇の御意識も消去された。 
然し喉から何かを吐き出したいように胸をかきむしってのお苦しみようだ」 「医師の誰もが直感したのは”急性毒物中毒症状”である。
「かって民間で自殺を図ったものが石見銀山(砒素系劇薬)を飲んで死んでいった症状と全く同じ」光順は石見銀山による自殺者の最後を見たことがあったのである。……

岩倉具視後宮女官との接縁関係。
●…女官典侍堀河紀子、岩倉具視実妹孝明天皇の女児2名を生し、後宮女官に多大な影響力あり。また女官典侍高野房子と接触が在った。 但し岩倉具視と一緒に追放、辞官隠居の身。
●…女官典侍高野房子、堀河紀子と接触あり。後宮内の長州過激尊攘派女官で禁門の変で追放、辞官隠居になるが、後宮内に多大な勢力を残している。
●…女官典侍中御門良子、岩倉具視の姪、具視の実姉富子の嫁ぎ先、中御門経之の娘。実父中御門経之は過激尊攘派公卿で”廷臣22卿列参事件”の主要人物で閉門、追放され、孝明天皇急死後に洛北岩倉村にて(岩倉具視大久保利通、品川弥次郎、中御門経之)共に『薩長両藩主に下す倒幕の密勅』作成の謀議のメンバーでした。
事件発生の概要から、ほぼ御係女官が御毒混入の下手人と想定されますが、 では、後宮内で凶行の指揮、指示者の女官は誰か? 疑惑の上記3名の内、2名は追放中、中御門良子の事件時の所在は不明と云う事です。
当時、洛北岩倉村の岩倉具視の幽居宅は薩長尊攘派の出入りが多く一棟増築しており、外部との頻繁な接触を深めて居りました。
推理できる構図は
岩倉具視の計画指示→縁故有力女官(堀河紀子、高野房子、中御門良子、その他?)→御所内同志の女官(実行指揮者)→お差し(お薬運び役)→病室女官、その他係女官が”実行下手人”となるのかも。
と云うことで、話は今流行の検察官の”作文取調べ”に似てしまいましたが、……在り得ない話になりますが、情緒感覚を排除すれば、今でも司法解剖!化学物質の残留分析など!、江戸末期の事件と云えども近代科学的捜査では簡単なはずですから。!!
なお、侍医の調剤薬はお運びの女官や御側に侍る女官などの手を経て天皇が服用されるとの事です。
戦後昭和50年には御典医伊良子光順の曾孫医師伊良子光孝は医師会報に光順の日記とメモを発表し論考として天皇へ痘瘡罹病を企てた何者かが更に砒素混入を謀った毒殺説を推理しております。
混乱究極の幕末、孝明天皇の急死が尊攘派に優位体勢をもたらした事実から当然そのまま推移しますが明治新政府成立後も下手人容疑の女官は生存しました。しかし当然の帰結、政府見解の御病死によって歴史の彼方に流れ去りました。 
だが看過できない重大な問題は薩長公卿の尊攘派天皇を、覇権奪取の道具として利用した危惧さえ抱かせる事件でした。
なお天然痘患者の症状には、稀に砒素服毒と同じ症状を呈し絶命にいたる出血性痘瘡の存在を現代医学の資料として原口清氏が発表しておりますが、天然痘罹病者の1%程度とされております。
この件を根拠に近年、天皇病死説を展開する女性小説家さんが現れましたが、簡単な確率と云う理論が脱落しております。 1/100に賭け99/100を無視するチグハグな矛盾が気になり、ことさら罹病時に究極の病名を解明できない江戸時代の医療実体をも失念しているのでしょうか?、…
結論として1%の病死推理は99%の砒素服毒死の客観的構図を変える状況はなにも存在していないのです。……次へつづく…  ……前へ戻る

《明治と維新の時代》
(6) 近藤勇終焉板橋宿始末
(5) 疑惑の女官達(孝明天皇急死事件)
(4) 脆弱な歴史観《孝明天皇急死事件》
(3) 薩長新政府の文化破壊
(2) お仕置き御用という仕事 浅草弾左衛門
(1) 浅草弾左衛門