[地域]  港ヨコハマ(4)−6 横浜の下町 中区の今昔

横浜市を構成する庶民の町に寿町があります。前時代の港湾荷役に係わる横浜市の重要な労働者の住む街で、寿町は更に中区の街々の象徴的な存在でもありました。即ち、過っての横浜という大港湾都市の住民のネイティブランド的雰囲気が中区の存在感かと思います。
この区には不思議にも寿町が代表する様にお目出度い言葉を冠した町名が驚くほど多数存在します。ゆっくり話しを進めますので羅列してみましょう。……寿町、日ノ出町、黄金町、曙町、長者町、福富町、蓬莱町、末広町、弥生町、万代町、不老町、常盤町、千歳町、桜木町、錦町、扇町、翁町、英町、羽衣町、初音町、富士見町、末吉町、花咲町、三吉町、真金町(現、南区)…etc、
ホテル ニューグランド アメリカ占領軍総司令官マッカーサー元帥宿泊施設


ま、理由を調べますと簡単な事で、既に江戸前期の万治年代に沼沢の埋め立てが記録され、開港後の明治6年(1873)の大規模埋め立てで中区の市街地化が実現しており、その際、命名した目出度い町名の由縁は我田引水もクレームも付かない皆が喜ぶ新町名誕生と云う事で、新開地の象徴なのでしょう。…
では、コンテナ物流革命以前の昭和30年代の中区の様子……JR桜木町駅前の大岡川は横浜港内に通じ当時は港湾荷役の主役格のバージと称する通称ダルマ船が舫い、埋め尽くしており横浜港運河の銀座通りの如き水路です。沖仲仕(港湾労働者)が朝晩上陸して賑わい野毛山下から日の出町、黄金町、長者町から寿町方面へほぼ中区の中核が港湾関係者の宿泊居住地が散在していたのです。当時の船舶荷役の実態は、縄で編んだ大きな風呂敷の様な物(モッコ)を広げ積荷を載せてデリック(ウインチ)で吊り上げるのですが、例えば、穀類など農産物はドンゴロスと呼んだ麻袋に入れてあり、人が担げる程度の大きさです、沖合い停泊本船にバージが接舷して本船船倉とバージの船倉で沖仲仕が分かれて、積荷をモッコに積んだり、下ろしたりしますが、バージは約100トン程度、本船は1万トン前後の大きさでその船倉は目も眩むほど大きいのです。もうお分かりかと思いますが、一隻の貨物船荷役にもイナゴの大群程の沖仲仕が働いていたのです。
港湾都市横浜では毎日無数の本船が荷役を行いそれに従事する労働者数が想像できると思います。余計な事を知らなくても力仕事が出来る人達が各地から横浜に集って来たのです。……積荷の種類、量にもよりますが、……その間本船(貨物船)船員は上陸、1〜2日程度の休養、即ち酒やら女性とお付き合いする事になるのでしょう。ま、事情でチープに上陸を楽しむのにはシーメンズクラブあたりで遊び船に帰って寝る、…沖合いのブイ係留や離れた岸壁の本船には交通艇が回っております。……
また、船員の”第六感”は不思議に鋭く、知らない港でも究極の遊び場はどの辺か勘で分かります、また店の外観でどの程度の事をする場所かも分かるでしょう。明確なのは埠頭に行く寂しい場所でネオンが燈る2,3軒の酒を出す店などは市民が来ない船員オンリー、究極の知る人ぞ知る場所が多いのですが、要注意は、そこで日頃権力者の上司とバッタリ鉢合わせでは、相手もこちらも何か、ばつの悪い具合になるかも……曰く…あの野郎仕事は半人前のくせに遊びだけは一人前だ……、曰く…へ、偉そうにしてやがっても、なんだい鼻の下長くした面は見られたもんじゃねえや………

厚木海軍飛行場に到着時のアメリカ占領軍総司令官マッカーサー元帥では、敗戦により占領された横浜市の中核、中区の様子は……アメリカ軍総司令官マッカーサー元帥が昭和20年(1945)8月30日厚木海軍飛行場に専用機バタァン号で飛来し、山下公園前の横浜ニューグランドホテルに宿泊、当初の日本占領アメリカ軍の主要地が横浜市だったのです。
GHQアメリカ占領軍総司令部)が東京日比谷第一生命ビルに移った後も横浜港湾全施設は米軍占領下にあり、私の目撃した戦災都市横浜一番の繁華街伊勢崎町通りの裏側でさえも金網フェンスに囲われた米軍物資置き場が延々と続いており、シートに被われた物資が野積みされて見渡す限りの空間を占めていたのです。
日米講和条約の締結、昭和27年4月日本国独立に至る6年間余り横浜市は主要港湾施設の占拠と外郭の厚木、相模原、座間など米軍基地とUS.NAVY横須賀軍港との主要道路、また本牧地区の広大な宿泊設備を抱え、横浜市アメリカ占領軍の中枢の機能を果たし、返還が遅れて以後の復興にはハンデキャップがありました。……次回は中区の街々の実態です …… 先へつづく… ……前へ戻る

《港ヨコハマ》
(6) 横浜市の裏窓を覗く
(5) ネイティブ横浜 黄金町 真金町 永楽町
(4) 横浜の下町 中区の今昔
(3) コンテナ革命と街の現象
(2) 時代は終わった!激変メカニズム
(1) 消えたセンチメンタル